信遊記
2025年11・12月号

信遊記~第五回 木曽氏をめぐる冒険 その1~

  • 長野県企画振興部長 中村徹(監修:長野県立歴史館 村石正行先生)

1.前置き

「水色」という言葉を作った人が見ていた色はこれに違いない。夏に阿寺渓谷を訪れた際にそう思いました。

今回のテーマは木曽義仲です。

あの水色を見ながら、木曽義仲も育ったのでしょうか。

2.木曽義仲の生涯

木曽義仲は信濃の国の五番の四人でも最初に登場します。知名度についても、木曽義仲、仁科信盛(盛信)、太宰春台、佐久間象山の四人の中で一番と思います。

まずは木曽義仲の生涯を振り返ります。簡単に振り返りますので、歴史に詳しい方は読み飛ばしていただいて結構です。なお、以下の文章は「長野県史 通史編 第二巻 中世一」から要約しています。

木曽義仲は1154年に源義賢の次男として生まれています。源義賢は兄弟である源義朝(源頼朝のお父さん)と争い敗れ、義朝の長男、源義平(悪源太義平として知られます。悪(強い)源太(源氏の長男)という意味です。)に討たれます。どうでも良いですが、悪源太義平(あくげんたよしひら!)という言葉の響きが好きです。当時2歳の義仲も殺されそうになりますが、さすがにかわいそう、と義平の家臣にも思われ、母とともに木曽の中原兼遠に預けられ、かくまわれます。

なお、源義朝も平清盛との争いに敗れて子の義平ともども亡くなり、幼かった頼朝は伊豆に流されます。

木曽ですくすく育った義仲のもとに1180年、以仁王(後白河法皇の第三皇子)から平氏追討の令旨が届きます。

義仲は中原兼遠(巴御前は兼遠の子(異説あり))や地元の土豪を糾合し挙兵、国府(東筑摩郡)を抑え平氏方と戦い、これに勝利します。依田城(上田市)に拠り、父義賢の領国であった上野国(群馬県)等でも勢力を集め、次第に大きな勢力となっていきます。今井兼平(中原兼遠の子)、樋口金光(兼平のお兄ちゃん。)、根井行親、楯親忠(根井行親の子)の義仲四天王もこのころから付き従っています。

1181年、越後の平家方の城氏が攻め込んできたのを横田河原(長野市篠ノ井のあたり)で破ります。なお、この篠ノ井のあたり、川中島の合戦の舞台でもあります。なお、「逃げ若」で知名度が上がった中先代の乱の折にも戦いの舞台となっています。「善光寺平」と言いますが、山地が多い長野県。大軍同士はこの近辺が戦いをしやすかったのですね。

その後、養和の飢饉と呼ばれる大凶作があったり、頼朝が義仲を討とうとして軍勢を動かしはじめたことを契機に義仲から頼朝に嫡子の義高を人質として送ったり、と色々ありながらも北陸路を進軍。1183年、倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市)で平家に大勝します。

この大勝の余勢をかって平家方を追い詰め、ついには入京、平家を都落ちさせます。義仲は京都を守護する総責任者のような立場に任じられ、源氏ゆかりの伊予守に任官。「朝日の将軍」という院宣が下されます。おそらくここが義仲の頂点でした。

京都での義仲は、皇位継承問題や論功行賞で後白河法皇との溝を深め、義仲自身の立ち居振る舞いの無骨・無作法さが朝廷の公家たちの眉をひそめさせます(この場合の眉は、やはり「マロまゆ」だったのでしょうね。)。その後もすれ違いは続き、西国へ逃げた平家の討伐もうまく行かず(海戦は平家の得意とするところです)、ついには後白河法皇に対してクーデタを行います。

クーデタは成功し、義仲は征夷大将軍(正しくは征東大将軍らしい。「東」は頼朝のこと)の地位も得ますが、法皇がひそかに連絡をとっていた頼朝から圧倒的な軍勢を差し向けられ、宇治川での奮戦むなしく近江粟津(大津市)にて自害します(1184年)。

前述長野県史では義仲の強さが「牧」という騎馬の生産地を有した信濃の土豪たちにあったことに触れ、「騎馬の勢によって北陸道を猛進撃し、京都一番乗りに成功した義仲も、都においてその騎馬から降りたとき、すでにみずからの運命はきまったというべきであった。それがじつは信濃軍勢の運命でもあったのである。」(P83)となかなか詩的にとじています。

3.木曽義仲をとりまくあれこれ

(1)木曽義仲のイメージ

木曽義仲については、平家物語などの記述から「強いが粗暴で不調法な田舎武者」というイメージが一般に流布されています。

県立歴史館の2024年の企画展「疾風怒濤 木曽義仲~文書と絵画でみる義仲の一生~」では、義仲が畿内の警備等に際して略奪を禁じている文書等を示し、政務に取り組む新しいイメージの義仲を示しています。

また、当時の文書を「現在のE-mailに置き換えるとこんな感じ」と解説しており、非常に親しみやすかったです。県立歴史館の展示は毎回工夫がこらされていますが、この回の工夫が私は今のところ一番好きです。毎回このE-mail展示はやってほしいぐらいです。私がやっても良いです。

また、兵士たちの略奪についても「妻籠の歴史」(南木曽町博物館)では「京都は打続く飢饉で荒廃しており、兵士の糧食さえ満足に調達できないありさまで、飢えた兵士は都中を略奪して歩いた。義仲もそれをやむを得ぬことと黙認していたようで、京都における義仲の人気は一時に地に落ちた。(P16)」とあり、上記の「長野県史」の最後ではありませんが、京都に入った時点で「詰み」だったのかもしれませんね。

(2)木曽義仲に想う

さて、ここで皆さん思い出してみてください。28,29歳の時、何してましたか?(まだ20代前半の方は「何してるかな?」と思いをはせてください。)

突然何を言いだしたのかと思うかもしれません。これ、義仲が京都に入った時の年齢です。この年齢、私は総務省自治行政局行政課の主査を卒業し、広島市役所に「ものづくり支援課長」として出向したてでした。

はじめての管理職、はじめての土地、失敗もたくさんしました。土地勘も経験も無い中、いざというときに今までの自分の中で頼りにできるのは霞が関での法改正作業、法解釈作業などで「調べること」「ロジックをくみ上げること」にかけてきた時間だけでした。広島という土地は面白い土地で、平場の会議でも上司の局長が「わしは納得しとりませんけぇ、帰らせてもらいますわ。」と席を蹴るような場面にも遭遇しましたし、「うちの上司、すげぇな」と思っていたら、広島県庁の管理職の方も、某自動車メーカーの方も、普通に会議で喧嘩をしていました(広島弁での喧嘩は迫力がありましたねぇ。「中村君の大阪弁はお公家さんみたいで優しいのぅ!」と言われていました。)。そんな中だったので「あ、いいんだ」と私も変な話が来たら相手を理詰めで論破したりしていたら、これが失敗。じつは後々協力を仰がなければならない相手で、気まずい思いをしながら頭を下げにいかなければならなかったり、江戸の敵を長崎で討たれたり…、と。というか単純に嫌な若造ですね。「相手にも事情があるだろうから、とりあえず話をよく聞こう。否定しなければならないにせよ相手の立場に寄り添ってお話ししよう。」と学ばせていただく機会になりました。なお、同時期に他の地方に出た総務省の同期は派遣先で財政課長に着任早々災害にみまわれ、復興の予算要求を大量に受け、玉石混交であったため「真に必要なもの」とロジックで査定をしまくったところ、庁内幹部会議で「財政課長が復興を止めている」と糾弾され、悲しかったと言っていました。総務省出向者にとってあるあるな体験なのかもしれません。

京都に上がったころ、義仲が頼れるのは自身の勝利の経験と「牧」「信濃武士」に支えられた武力だけだったはずです。これに頼った結果が周囲とのあつれき、最後の法皇に対するクーデタ、と一連の破滅につながっていました。

ましてや、相手は当時最高峰の政治能力を持つ後白河法皇です。私のたとえで言うと、課長になりたての私が当時の安倍首相や菅官房長官と切った張ったしながら調整するようなものでしょうか(当然そんな機会はありませんよ!)。

私は何回か恥をかくぐらいで済んで、31歳の頃に広島から東京に戻りましたが、義仲は31歳で死にました。

もう一度聞きます。皆さん28歳、29歳の頃、何してましたか?また、転職や転勤、異動に当たって前職場の知識や強みを活かそうとして失敗したことはありませんか?もしあなたが義仲だったら、義仲より上手くやれますか?

(3)木曽義仲って信濃?

何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、これが当たり前じゃないのです。

木曽については「この名が文献にでてくるのは、『続日本紀』の大宝二年(七〇二)の条に、「十二月壬寅、始めて美濃国岐蘇山道を開く」とあるのが最初である。(中略)美濃・信濃の国境について論争が発生したため、元慶三年(八七九)、朝廷は現地視察の結果として県坂(木曽郡境峠または鳥居峠に比定される)が国境であると採決を下した。その結果、県坂以南の地、すなわち当時の吉蘇・小吉蘇の両村、現在の鳥居峠以南の地は美濃国となった。したがって義仲の生育地とされる日義村地域は当然美濃国といわなければならなかった。」(長野県史 通史編 第二巻 中世一P55)とあり、行政区分上はこの時代美濃になります。であるのに、平家物語等では「信濃の木曽義仲」と信濃人として取り扱われています。その後の拠点の依田城等は信濃なので違和感はないですが、厳密にいうとどうなのでしょう?

長野県史は「もともとこの木曽谷は、美濃から北東の信濃側に深くのびてきており、山林や牧馬の管理者、農地の開拓者なども信濃の人が多かったためか平安時代末には一般的に信濃と思われるようになっていた。(中略)したがって義仲生育当時の木曽は、行政的には美濃に属していたが、全国的な通年や慣行のうえからは信濃にあったといえる。」(同P56)としています。

なんだかおもしろいです。ネット上で「埼玉県赤羽(本当は東京都)」とか「東京都川口市(本当は埼玉県)」とかネタで言われていますが、このころの木曽は「え、信濃じゃないの?」状態だったわけですね。

来年は県政150年(長野県が今の形になってから150年)の節目の年であり、県でもこの記念の年にイベントや県民の一体感の醸成など力を入れますが、皆が帰属意識を持つ「信州」にも大いに思いをはせていただきたいです。

(4)木曽義仲にゆかりの地

いくつか挙げていきましょう。木曽地域には本当にゆかりの地が多いので、書ききれていません。私が回れたところだけ…。

①義仲館(木曽町日義290-1)

「義仲と巴からの手紙」をテーマにした記念館。義仲四天王の等身大模型と写真を撮れたり、映像等でわかりやすく義仲の生涯を解説しています。館内は白で統一されており、時の果てにたどり着いたような不思議な空間です。なお、字の名の日義は旧日義村にちなみますが、日義村の村名は朝「日」将軍「義」仲から採られており、地元の方々の義仲への愛情がよくわかります。


②徳音寺
(木曽町日義124-1)

木曽義仲が母の小枝御前を弔うために建てたお寺です。義仲と母の小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平などのお墓があります。興禅寺も義仲寺もですが、偉い人はお墓がたくさんありますね。


③旗挙八幡宮
(木曽町日義2150)

上記2つにほど近い場所にある旗挙げの地と言われている場所です。

木曽町では毎年8月14日に木曽義仲を弔うらっぽしょ祭りが行われ、山吹山には「木」の火文字が作られますが、ここからはよく見えるそうです。時期が時期なのでなかなか行きにくいですが、らっぽしょ祭り、いつか行ってみたいです。


④興禅寺
(木曽町福島門前5659)

木曽義仲と木曽義康、木曽義昌のお墓が並んでいます。木曽義康、木曽義昌については次回取り上げます。看雲庭も見事。


⑤義仲寺
(滋賀県大津市馬場1-5-12)

義仲が自害した粟津の地に義仲を弔うために建てられました。巴御前が義仲の墓を弔うために草庵を結んだのが由来と伝えられています。義仲のファンであった松尾芭蕉も弔われています。境内には巴御前の墓や松尾芭蕉の墓、義仲の愛妾山吹御前の塚などもあります。お寺の方と話しましたが「長野県から来た」と言うと「それはまぁ」と驚かれました。木曽には行かれたことは無いとのことでした。木曽の自治体の皆さま、義仲つながりで大津市と交流しても良いのではないでしょうか。産まれの埼玉、進撃の跡の残る北陸などの自治体と組んで「木曽義仲サミット」とか、広域連合でどうですか?


⑥今井兼平の墓
(滋賀県大津市晴嵐2-4)

義仲に信濃から付き従った義仲四天王の一人、今井兼平(義仲を匿った中原兼遠の子。巴御前の兄)の墓です。平家物語等によると頼朝方との戦いに負けて「鎧が重く感じる」と弱音を吐く義仲を「今は付き従う軍勢もいなくて弱気になっているのだろう。兼平一人で数千騎と思ってくれて良い」と励まし「共に討ち死にしよう」と言う義仲に「疲れているのだから、つまらない者に討ち取られてはいけない、自刃されるように。」とすすめ、自らはその後に刀をくわえて馬から飛び降りるという壮絶な自害をしています。このやりとりは悲壮感が漂いますが、幼い頃から共に育ち、義理の兄弟でもある兼平と義仲の距離感が伝わってきて好きです。

4.むすびに

今回は木曽義仲について取り上げました。戦国期の木曽義昌やその後の山村氏等の支配についても触れたかったのですが、長くなったので次回に!

温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」

「街道浪漫 おん宿蔦屋」(長野県木曽郡木曽町福島5162)

泉質は含二酸化炭素-カルシウム―炭酸水素塩冷鉱泉。冷鉱泉というのは湧き出した時の温度が25度以下であるものを言います。肌触りが良い優しい温泉です。薬草湯である内湯では夜に木曽節が流れており、お湯につかっているとぼーっとできます。露天の温泉は内湯にいったん入ってからドアを開けて外に出る珍しいタイプ。川のせせらぎが耳に気持ちよく、こちらは川の流れが見える朝(昼)がおすすめです。

インバウンドで大変にぎわっています。余談ですが木曽(全域の話です)にはインバウンドで来た皆さんがお金を使えるようなアクティビティがもっとあれば良いと思っています。商売っ気が少なく感じてしまい、大阪人の私はもったいなく思っています。