1.ごあいさつ

新年あけましておめでとうございます。
今年は筑摩県と長野県が合併してから150年である長野県150周年の年です。「わたしの、私たちの長野県」として各地で今までやこれからの長野県を考えるきっかけになるイベントが開催される予定ですので個人的にも楽しみにしています。
そして今年は午年です。
馬は古くは信濃の誇る強力な陸上兵器でした。信濃は牧のブランドで日本全国に貢献し、前回木曽義仲について触れたように信濃武士団は騎馬の力に支えられていました。軍事物資であった馬は宿場まちをつなぐ重要な運搬用具となり、また、現在ではアミューズメントやセラピーの対象にもなっています。このように「馬」という一つの存在も時代とともに位置づけが変わっています(軍事技術として発達してきたインターネットがコミュニケーションの要として欠かせないインフラになっているのに似ていると思います。)。
また、今回五街道の一つの中山道をとりあげますが、同じ馬を使った物の運搬でも、宿ごとをつなぐ官製の伝馬(宿ごとに荷の積み替えが必要で不便)から時代を経ると民間の中馬(目的地まで運んでくれる)に移り変わります。これなんかも求められるサービスに応じた民営化が昔から行われていたことを示しますね。
我々も時代の流れに合わせて柔軟に新技術、新しい常識を取り入れていきたいですね。
とりあえず、馬刺し食べに行きましょうか!(長野駅前の「長野といえば、BANIKUMAN」というお店が好きです。おすすめの店、教えてください。)
2.前置き
さて昨年11月、南木曽町の「妻籠を愛する会」主催の文化文政風俗絵巻之行列に参加してきました。江戸時代の妻籠宿の情景をしのび、当時の衣装で妻籠宿も含めて約3時間練り歩く行列。街道沿いにはずらりと写真撮影の列が並びました。慣れぬ草鞋に筋肉痛になりましたが、武士の姿で写真を撮られるのもなんだか俳優になったようで気分がよく、かつての中山道の賑わいにも思いを寄せられる良い機会でした。
今回は前回に引き続き、木曽についてとりあげます。今回、ちょっとマニアックかもしれません。
3.木曽義仲以降の木曽について
(1)義仲、敗死の後
前回は木曽義仲の生涯について触れました。木曽義仲が滅んだあと、木曽はどうなったのでしょう。
ライトな歴史オタの私の木曽に行く前の知識では、
・戦国期には木曽義仲の子孫という木曽氏がいて、当主の木曽義康が武田信玄と戦って良い勝負をするものの負け、息子の木曽義昌が信玄の娘をめとる。
・木曽義昌が織田氏の侵攻時に離反し、武田方がボロボロと崩れる。
というぐらいのものでした。さて、実際はどうだったのでしょうか。
後に触れる木曽の代官をつとめていた山村代官の6代目山村良景が著した「木曽考」では、木曽義仲の子孫が連綿と木曽を治めていたとされますが、「妻籠の歴史(南木曽町博物館)」では「木曽氏の出自は明らかではないが、『木曽考』の系図によれば義仲の直系の子孫で、義仲の敗死後も連綿として木曽の支配者として居住したことになっている。しかし実際には義仲の子孫は、鎌倉幕府を樹立した源頼朝によって徹底的に捜索され、全員が殺されて血筋は絶えていた。『木曽考』ではのちに木曽の支配者となる大吉祖庄の地頭藤原氏を、木曽の武士の棟梁ともいえる義仲にどうしても結び付けたかったのであろう。」(P27)「十四世紀には木曽の北半分に割拠するに過ぎなかった木曽氏が木曽南部の占領地に次々と一族を配しつつ、十六世紀には木曽谷一円を支配するまでになった。ただ、その支配形態については、(中略)確実な史料の分析から長野県立歴史館笹本正治館長(筆者注:特別館長)が言われるごとく「武田氏が侵入してくる以前の木曽氏は戦国大名的な統治はしておらず、むしろ古い形で木曽谷に住んでいた武士たちに号令をかけていたにすぎな」かったことは言うまでもない」(P34)とあります。
まとめると、木曽の北部を治めていた地頭の藤原氏が木曽義仲の後裔と自称して木曽氏を名乗り、16世紀には木曽全域を掌握した上で中世的な形でゆるやかに統治をしていたわけですね。
さて、いよいよ信玄が来ます。
(2)信玄、襲来
前述「妻籠の歴史」をまとめます。戦国期の木曽の領主、木曽義康は小笠原長時(松本)、諏訪頼重(諏訪)、村上義清(坂城)とともに「信濃四大将」と称されたそうです。しかしながら、甲斐の武田信玄が1541年に実父信虎を追放して実権を握るやいなや、翌年から信濃攻略に着手し、どんどんと領土を広げます。信濃四大将もこれに抗して時には勝利をおさめたりもしますが、信玄は調略も駆使してどんどんと彼らを追い詰めて行き、諏訪頼重は甲府に連行されて自刃。小笠原長時や村上義清は本拠を追われ、木曽義康も降伏します。
敗れた木曾義康は娘を人質として甲府に差し出すとともに嫡男である木曾義昌に信玄の娘真理姫を娶らせ、信玄の一部将となります。
(3)義昌の戦い
武田氏の元でも木曽は木曽氏が治めていましたが、織田氏の侵攻をうけ1582年1月に当主木曽義昌は織田方に寝返ります。木曽は美濃からの入り口であったので、織田氏の進行ルートにあたりますね。この木曽義昌の裏切りは義理の兄である武田勝頼にとって衝撃的であったようです。
後述の興禅寺に木曽義仲、木曽義康、木曽義昌のお墓詣りに行った際に、同行者があまり歴史に興味の無い方で「木曽義昌ってどんな人ですか?」と問われたため、「信玄の娘婿でしたが、織田氏の武田攻めの際に裏切った武将です。これを機に武田方はボロボロと崩れていくのです。」と説明しました。直後に蛇がニョロニョロと出てきたため「故人のお墓の前で「裏切った」云々は言っちゃいけなかったのかな」と冷や汗をかきました。
とはいえ、諏訪頼重が自刃させられた諏訪氏は諏訪頼重の妹を信玄が娶り(この感覚がすごいですね。戦国!)、子の勝頼が諏訪を治めるポジションに入りましたが、木曽氏は義昌が信玄の娘婿なわけですし結構優遇されていたんじゃないでしょうか?離反自体は事実なわけですし、前述の説明でそこまで怒られるかなぁ。
「長野県史 通史編 第三巻中世二」では「武田氏は木曽氏が同じ源氏であり、当時は長尾景虎との争いに力をそそがねばならなかったので、木曽氏を親族衆として待遇し、旧領もそのまま安堵した。」(P296)「武田氏は、国境警固・関所経営・伝馬制度・人返し令などにより、あきらかに木曽氏の領国支配の上に立っていた。しかし武田氏は木曽氏の一般的な領域支配にまで立ち入ることはできず、独自の領域支配や家臣団組織はそのまま維持されていたので、木曽氏は武田氏滅亡のさい、いちはやく織田氏と結ぶことができたのである。」(P298)とあります。
ほら、木曽氏が結構優遇されているように見えます。
一方で「妻籠の歴史」では以下のように記述します。
「後に書かれた『木曽考』などによれば、木曽を征服した信玄は、木曽氏が武田氏と同じく清和源氏の血を引く名家なので、取り潰したり追放するようなことはせず、娘の真理姫を輿入れさせて御親類衆として厚く遇したとしている。(中略)しかし、確かに武田氏は木曽氏を厚遇しはしたがそれはうわべにすぎず、木曽の重要性を認識した武田氏は、実質的には木曽を直轄支配したのであった。『木曽考』は木曽代官六代山村良景が宝永三年(一七〇六)三月に編述したものであることはすでにみてきたが、そこには二つの建前が貫かれていた。一つは木曽氏は源義仲の嫡流であること、二つは山村氏は木曽家にとってそれほど新参者ではないということである。そこには木曽氏から山村氏へと続く、木曽の統治の正当性を立証しようとする著者の意図が濃厚に作用していたのである。」(P37)とし、山村氏、千村氏という木曽義昌の重臣は武田から派遣されたお目付け役であると述べます。
そして、「武田氏は、表面的には木曽氏を御親類衆として遇しはしたが、その統治については木曽家に山村と千村を派遣して中枢を牛耳り、その独自性をほとんど認めなかったのである。この状況を『織田軍記』がいみじくも「毎年此者(山村や千村)指引シテ漸々ニ木曽ヲ掠メ、後ニハ義昌モ少モ心ノママナルコトナシ」と記している」(P40)としています。また、伝馬制度や国境警固の武田氏による掌握をもって木曽義昌の自由度は高くなかったと述べています。
一族経営の企業に合併されて社長の娘と結婚し、子会社を任されたは良いものの専務や常務は皆お目付け役、実権なしの社長、という感じでしょうか。
どちらが真実なのでしょうか。または、どちらも真実なのでしょうか。この「信遊記」の目的は実証主義的に歴史の真実をさぐることではありませんから詳述は避けますが、私は飛騨・美濃との国境の重要地帯である木曽を信玄が野放しにしていたようには思えません。娘婿と言っても、松平元康(徳川家康)だって今川義元の娘婿として遇されつつも三河衆はひどい目にあっていたわけですから、木曽も「妻籠の歴史」が述べるような感じじゃなかったのかなぁと思います。
監修の村石先生は「木曽の位置づけは、美濃と信濃の境目であり、緩衝地帯。家康と秀吉が雌雄をまみえる際も彼が双方に通じています。武田から信長に裏切ったというよりも、双方に通じる境目故に、双方と通じていたのでしょうかね。」と述べます。信濃の国に多い「境目の領主」(真田などが良い例)の宿命というわけでしょうか。
となると、墓前で裏切者呼ばわりをした際に蛇が出てきた理由もわかります。織田方への寝返りも含めて、義昌的には木曽としての独立性を保つための戦いだったわけです。先日興禅寺にもう一度お参りした際に「ご事情も知らずに大変失礼を申しました。」とお詫びしておきました。
蛇は出ませんでした。
(4)山村氏、代官の座
①Before関ヶ原
先ほどからちょくちょく出てくる山村氏に主役はうつりますが、木曽氏のその後についてちょっとだけ。
木曽義昌は武田氏の滅亡後、信長から木曽・安曇・筑摩を与えられて深志城(今の松本城)を拠点としますが、本能寺の変の後のごっちゃごちゃで安曇・筑摩を失います。
義昌はいったんは家康につき従いますが、その後秀吉に鞍替えして小牧・長久手の戦いを迎え、家康方と戦います。この時、妻籠城(南木曽町)で戦ったのが木曽氏の家来である山村氏です。なかなか壮絶かつ奇計も飛び出す戦いだったようで、これについてじっくり述べたい気もしますが、ちょっと下調べ不足、断念。山村氏たちは寡兵でなんとか家康方を撃退したそうです。
小牧・長久手の戦いの後、木曽義昌は秀吉により家康につけられて(これ、義昌は気まずかったんじゃないかなぁ。)家康の関東移封に同行します。
義昌は下総国阿知戸(千葉県旭市)に1万石を与えられ1595年に没します。その子、木曽義利が跡を継ぎますが、不行跡により1600年に改易されています。
なお、千葉県旭市の「旭」は木曽氏が祖と称した朝日将軍義仲にちなみます。前回に触れた旧日義村(木曽町)も「朝“日”将軍“義”仲」にちなんでいましたし、やっぱりビッグネームですね義仲さん!
さて、木曽はどうなっていたかというと、秀吉の直轄地になっていました。当時の木材は築城や街づくりの際の重要物資。聚楽第や名護屋城に寺社仏閣と土木工事大好きな秀吉としては手元においておきたかったのですね。
ここから主役の山村氏に話を戻します。木曽氏の阿知戸移封についていった山村氏が木曽に返り咲くきっかけは関ヶ原の戦いでした。
②After関ヶ原
西軍方の木曽を攻略したい家康は、山村氏や千村氏ら木曽氏の旧臣を派遣。山村氏らは豊臣の代官をしていた石川氏の拠点を攻略し、木曽を東軍方に確保します。
真田昌幸に上田城で足止めされた徳川秀忠が「東軍、もう勝ったってさ」という情報を聞いたのは妻籠城だったそうです。歴史ドラマなどでよく出てくるあのシーンですね。
家康は秀吉と同様木曽を直轄地とするとともに、山村氏ら木曽氏旧臣は家康から旗本に取り立てられます。山村氏は木曽の代官と福島関所の関守を命じられ、木曽の統治者となったわけです。
その後、山村氏は家康直轄地の差配をしていた大久保長安(天下の山師!)の監督下に入りますが、長安も死去。家康から七男徳川義直(尾張藩主)に木曽が与えられたことで山村氏も尾張藩の家臣になります。一方で幕臣としての身分も保持して二重臣籍となっていたそうですから、木曽が徳川家からも特別視されていたことがうかがえます。
山村氏は代々甚兵衛を襲名し木曽を治めます。ちょくちょく出てくる「木曽考」は六代目の山村良景が著したものです。
また、九代目の山村蘇門(良由)は天明の大飢饉から領民の餓死を救った功績が認められ、尾張藩の家老として召し出されます。代々、尾張藩の木曽地域振興局長 兼 木曽警察署長を務めていたのが副知事になったようなものですかね。
③雑談、山村氏が言いたかったこと
「妻籠の歴史」では、前述の「木曽考」において「木曽氏は木曽義仲から続く血統であること」「山村氏は木曽氏の古い家来であること」という二つの建前でもって山村氏の支配の正統性を表現したとしています。つまり、「木曽義仲の子孫である木曽氏を支えていた山村氏なんだから、木曽の支配の正統性はあるよね。」ということです。
東京大学の日本史の入試問題は大問4問の論述ですが、1997年の過去問に「得宗(北条氏)が(鎌倉)幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行(120字)以内で述べよ。」という問題がありました。中世には貴種意識、血統意識があり、武士の棟梁である鎌倉将軍には天皇の血筋である源氏や摂関家の将軍ならなれるものの、一地方領主でしかなかった北条氏では全国の武士たちを抑えられなかった、という旨の回答をする問題でしたが、20年ぶりにそれを思い出しました。
血統といえば、長野県に来てから戦国武将とつながる名前の方にお目にかかる機会が増えました。依田明善県議会議長も依田信蕃(徳川家康に高い評価)に連なるそうですし、長野県の室賀リニア整備推進局長は「真田丸」序盤で「黙れ小童!」と西村まさ彦氏が怪演していた室賀さんの血筋だそうです。監修をしてくださっている歴史館の村石先生も村上義清につながるとのこと。
なんかこう、いいなぁ(ごめんなさい中村家のご先祖様。)。
(5)中山道、誕生
江戸時代の木曽は中山道の宿場として栄えます。東海道ほどではないですが、大名行列も通り、江戸~京都間の裏通りとして重要視されていました。
「妻籠の歴史」によると、中山道は「中仙道」と表記されていたものの、1716年に東山道、山陰道、山陽道等に合わせ「中山道」に統一されたそうです。
宿では、参勤交代の制度の実施に伴って大名等が宿泊する本陣や、本陣がいっぱいの場合のスペアである脇本陣も発達していきます。
第14代将軍徳川家茂への和宮の降嫁も中山道を通ってきていますね。地元ではお菓子等頑張って用意したそうですが、京から持ってきたものしか口にされなかったとか。当時の常識だったのか、やはりきな臭い世相を反映してのお付きの者たちの緊張だったのか、はてどうだったのでしょうか。
また、やはり森林は江戸時代でも大事な資源であり、木曽では木による年貢の納入が行われていました。住民の木の伐採は自由には認められておらず、「桧一本首一つ」と言われるほど厳しい制限を受けていたそうです。森林資源と住民との関係は島崎藤村の「夜明け前」の重要なファクターでもありますね。
明治時代から現代にかけて、中山道に関しては、鉄道網の発達や高速道路の諏訪から名古屋への敷設に伴い、そのままの形では往時の姿を残してはいませんが、宿場などは観光資源として観光客を呼び、地域の誇りとなっています。
私が驚いたのは例えば妻籠では一時期まで「お店でコーヒーを出すのは宿場の雰囲気にそぐわない」とコーヒー禁止まで徹底されていたことです(インベーダーゲームなどの置いてある喫茶店が乱立することを危ぶんでの事だったとか。)。住民の皆さんの気合のほどが伝わってきます。
(6)木曽の造りしもの
木曽について2回にわたり取り上げてきましたが、各地域で地域性の強い長野県の中でもかなり独特の地域と思います。はじめて木曽を訪れた際、トンネル、山道を抜けると渓谷にはりつくように里が広がっており「ナウシカに出てくる風の谷のようだ」と思ったものです。
村石先生は「鳥居峠より西は、信濃ではなかったことも重要ではないでしょうか。やはりこの地域は「木曽氏」のネームバリューが幅をきかせる。西国から関東への情報が最も早く入る地域です。西から見ると、木曽谷が西国の最果てでした。丹後国の浦島太郎がなぜ木曽に現れるのか?わたしは みやこびとにとって、木曽の山々が人々の住む地と、東(あずま)の境界の地であり、蓬莱山のある地域だと見なしていたのだろうと思っています。
木曽で育った得体の知れない義仲が上洛する。平安の貴族は、なにか得体の知れない者として彼をみていたのではないかと思います。」と仰っていました。
「西国の果て」と木曽をみたことは無かったので、はっとするご示唆でした。
少し本業の企画振興部長っぽいことを言いますが、木曽は人口減少が進んでおり、その分オンライン診療などの導入も進んでいます。また、中心市がない地域の性質もあり、木曽地域の町村の広域連合に県も入って、一緒になって課題に対応する新しい形の地方自治が展開されつつあります。
特殊性については単に地勢的なものだけではなく、歴史に根差したものなのかもしれないと改めて今回まとめていて感じた次第です。
皆さんのご意見もお聞きしたいですので、また一献やりながら是非。
3.今回のゆかりの地
宿場などはなかなか回れていないので、またじっくり訪問したいと思っています。
①興禅寺(木曽町福島門前5659)
木曽義仲と木曽義康、木曽義昌のお墓、歴代山村氏のお墓が並んでいます。上述の蛇が出たところ。前回も記載した通り、看雲庭も見事。今回改めて訪問して驚いたのは、山村氏のお墓。一部が木曽義仲たちのお墓よりも上の位置にあります。意図的なのかそうでないのかはわかりませんが、また聞いてみたいですね。第二回(高遠)で取り上げた守屋貞治の石仏もありました。なんだか線がつながったようで嬉しかったです。

興禅寺山村家墓所 
守屋貞治作 地蔵菩薩像
②妻籠宿(木曽町吾妻)
写真は脇本陣。脇本陣には明治13年の明治天皇が巡幸の際に立ち寄っています。なぜ本陣ではないかというと、当時脇本陣が明治10年に新築したばかりだったからとのこと。当主の林家には島崎藤村の初恋の人「ゆふ」さんが嫁いでおり、ゆふさんのお子さんが藤村にお願いして書いてもらった書なども展示されています。写真は冒頭で取り上げた時代行列「文化文政風俗絵巻之行列」の際に撮らせていただいたもの。光、綺麗でしょう?煙が立ち込めているところに低い位置の太陽から日差しがくると、このような形に光が見えるそうです。
本陣の方は島崎藤村の島崎家が代々当主をつとめていました。現在は当時の姿を再現されています。

脇本陣奥谷 
脇本陣奥谷の斜光
③山村代官屋敷(木曽町福島5808-1)
山村氏の下屋敷を展示。当時の暮らしが窺える展示が行われています。九代目の山村蘇門の事績について特に詳細に記されていました。
興禅寺に行く前に是非行ってみてほしいです。

④定勝寺(大桑村大字須原831-1)
実はここ、訪問した際に改修中で中は見ることができていないのです。ではなぜ取り上げるかというと、監修の村石先生のプッシュ!「ぜひ木曽の話題をいれていただくならば定勝寺をご紹介を。そば切り発祥の地の一つとされる文書がある。もっというと、男はつらいよ第22作に登場。しかもご住職がでております。」とのこと。ここも再チャレンジ必要!

⑤寝覚ノ床(上松町寝覚)
信濃の国にも出てくる名所。上記の村石先生のコメントで浦島太郎の話がありましたので、便乗して取り上げました。寝覚ノ床自体は皆さんご存じでしょうから詳細は解説しませんが、自然に比べてちっぽけな自分をかんじさせてくれる風景が広がっています。寝覚ノ床には浦島太郎伝説があります。竜宮城から戻った後、寝覚を気に入って暮らしていた浦島太郎が玉手箱を空け、老化に嘆き悲しんで姿を消したというもの。ゆかりの弁財天を祀った臨川寺には浦島太郎の釣り竿があります。

4.むすびに
木曽は情報量が多くて、どのようなアプローチの仕方でまとめるのが良いか、苦労しました。また、取り上げることが出来なかった視点もたくさんあり、またチャレンジしてみたい地域です。
また、「木曽考」の虚々実々や、前に取り上げた「甲陽軍鑑」などについてもそうですが、後世の我々は書かれたものを参考にするしかありません。
昔、某省庁で仕事していた際に「この大先輩はこの本でこう書かれているのだから素晴らしい人だったんですね」と言ったところ、職場の先輩が「うーん…ノーコメント」と苦笑していました。
私もこの信遊記で、さも素晴らしい人格で皆に慕われて仕事もバリバリできるような感じで記載していれば、私に会ったことのない人は騙されてくれたり……こういう発想から歴史修正主義が発生するのかもしれません。仕方ない、等身大でいきましょう。
なお、今回のおふざけですが、2の(1)~(5)についてはエヴァンゲリオンのアニメエピソードから採りました。私はエヴァの考察があんまりよくわからないので「マグマダイバー」あたりが見ていて楽しいです。
♨温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」
「木曽路の宿 いわや」(長野県木曽郡木曽町福島本町5169)
泉質は含二酸化炭素―カルシウムー炭酸水素塩冷鉱泉。前回の蔦屋から歩いて数分しか離れていないので、泉質も同じですね。こちらは高い位置に温泉があるため、露天から川を見下ろした景色が良いです。男性用が「義仲の湯」、女性用が「巴御前の湯」と木曽感を出してきます。肌に優しく、冬場でもぽかぽか温まりました。脱衣場も綺麗で好感度高し!
木曽、温泉についてもまだ木曽町の温泉しか行けていない(十分素晴らしいですが)ので、再チャレンジしたいですね。








