1.前置き

まちには磁力がある。
一時期、千ベロ酒場にはまって飲み歩いたことがあります(今でも好きです。長野市内にはそういう店を見つけられていません。あります?)が、ディープなまちの数々を歩いていると「このまちに行くとなんだか気持ちが悪くなる、頭が痛くなる」まちもありました。
場所は敢えて伏せますが、そのまちの目当ては、3000円弱でたんまり飲んでホルモン焼肉が腹いっぱい食べられる店。こぎたn…いえ、味のある店内では(唯一)キレイな大型テレビが場違いな存在感を放ち、公営ギャンブルを放送。隣のテーブルの歯の抜けたおじいちゃんが「にいちゃん、今の、〇―×―△だったら当たってたのにな!俺買ったの☆―△―□だったんだよな!惜しいねぇ!」と、ニコニコとトークを仕掛けてきます。いや、何も惜しくねぇよ、ちゃんと外れてんじゃん、とは言えず、私もあいまいに笑い返します。
間違いなくいい店です。
なのに3~4時間も居ると頭が痛くなるのはまちとの相性が悪いのか、それとも酒の質が良くないのか。
まちには磁力があります。
文化のまち、学業のまち、スポーツのまち、etcetc……。それぞれのまちに合ったものを引き付けます。
「小布施は粋人のまち」率直な私の感想です。小布施を取材する中で郷土史家の小林暢雄さんは「このまちの人たちの特性を一言で言うと、私も含めて「狂」ですね」と仰いました。
奇しくも葛飾北斎のペンネームの一つに画狂老人というイかしたネームもあります。
庭を公開して他人が入って来て愛でることをよしとするオープンガーデンのまち。
伊勢神宮をはじめ金毘羅山、八坂社など数々の大神社があつまる皇大神社には安市でダルマが並びます。
よそから来た行政未経験の若者(今の大宮町長です)を町役場の要の要である総務課長に据えちゃうまち。
間違いなくとんがってます。
シビックプライドも高くとんがってます。とんがりすぎて刺さりそうなので、私は小布施を訪れるときは「すみませんね、入らせてもらいますよ」とオープンガーデンを訪れる人の遠慮を見せつつ(いや、遠慮しないのが正解なんですか?)他県から来た人を案内しています。今回、そんな回です。
2.小布施にまつわるエトセトラ
(1)福島先輩、お疲れ様です!
北斎から入ると思われたかもしれませんが、まずこのまちで触れるのは福島正則です。
私の出身元の総務省(旧自治省)は霞が関の中でも体育会系として知られます。面倒にも見えますが、その分面倒見もよく(ウマい!)、赴任経験県や出身県の集まりもあります。誰かが東京から地方に転出する場合などは昼食会などが開かれ、私も長野県に赴任する際には、「長野県関係者会」「広島県関係者会」「宮城県関係者会」と会ごとに送別していただきました。
赴任先が二か所ぐらいかぶると、「縁がある」と親近感が増すわけですよ。
広島市に赴任していた際に、歴史上有名な武将というと毛利元就でした。また、浅野長政にはじまる浅野家が江戸時代の長きにわたり安芸の地を治め、家老の上田重安にはじまる武家茶道の上田宗箇流が現在でも力を持っているなど、現在の広島市に影響を与えているのは浅野家です。
当時の私の福島正則の知識は
・秀吉の親戚で子飼いの家来
・賤ケ岳七本槍の一人として秀吉のイケイケ系武将として活躍
・石田三成が嫌いで関ヶ原の戦いでは東軍で大暴れ
・広島城の無断改築が原因で広島を追われた
ぐらい。
小布施は福島正則が晩年を過ごしていました。私は恥ずかしながらこの事実を知りませんでした。
歴史が好きな総務省の地方赴任者と話していると「あれ、~~って〇〇県関係者だったんですか。」等、歴史上の人物を身近に例えて話すことがあります。あくまで酒の席の上での戯れですが、歴史上の人物が近くに来てくれたみたいで嬉しい。
それで言うと、福島正則は愛知県関係者、愛媛県関係者(伊予に領国を持っていました)、広島県関係者、長野県関係者(←NEW!)なわけで、二か所も赴任県がかぶっている。まずは赴任時に挨拶に行かねばならない存在です。
というわけで、福島正則から取り上げることにしました。
まず、おさらいです。
福島正則は1561年に尾張で生まれ、母が秀吉の母の妹という縁で秀吉に仕えます。本能寺の変の後の秀吉と明智光秀の山崎の戦いや、秀吉と柴田勝家の賤ケ岳の戦いで頭角をあらわし、秀吉麾下の猛将として小牧長久手の戦い、小田原の戦い、朝鮮出兵と奮戦し、出世していきます。
石田三成と不仲であり、関ヶ原の戦いではまっさきに家康につくことを宣言し、その後広島に約50万石を与えられます。
豊臣恩顧の大名なので豊臣家と徳川家を取り持つ動きも見せますが、大坂の陣では自らは出兵せず。
広島城の無断改築等(その後の対応も、態度悪かったらしい)が原因で高井野藩(須坂市、高山村、小布施町、中野市、山ノ内町・越後にまたがる)約5万石へ。その後、嫡男が早世して半分を幕府に返納し、64歳で亡くなるまで5年間を高井野藩での施政に当たります。
大酒飲みで、エピソードとして次のような話が残っています。
同じ秀吉恩顧の大名、黒田長政からの使者、母里太兵衛に酔っぱらって酒をすすめ「公務中だから」と断る母里さんに「黒田家の奴らマジざこ」と煽り、大杯の酒を飲み干せば何でも褒美にやると宣言。職場をけなされてイラっときた母里さんに実際に酒を飲み干され、秀吉から授かった名槍「日本」号を「それもらうよ」と褒美に取られます。次の日に「返して」とお願いしたものの断られて持って行かれましたとさ、という話です。
この話は民謡「黒田節」に「酒は飲め飲め飲むならば~」と歌に残されています。酒の失敗を歌で残されるとか何の罰ゲームでしょうか。デジタルスタンプどころの話じゃありません。4世紀以上歌われてます。
余談ながら「公務中だから」と住民に薦められた食べ物を断った経験がある公務員は結構多いのではないでしょうか。筆者が聞いた中で一番インパクトがあった「お断りグルメ」は「レバ刺し」でした。
また、本当にどうでも良い余談ながら、筆者は黒田節の歌詞を見ると「恋のマイアヒ」の空耳「飲ま飲ま飲まウェイ」が頭に浮かびます。2000年代に流行ったものなので20代の人たちはもう知らないかもしれません。
小布施の岩松院は福島正則の菩提寺となっており、高山村の高井寺は正則の屋敷跡があったといいます。
福島正則、上記の広島城改築エピソード、黒田節のエピソードや、他のゴツゴツしたエピソード(関ヶ原の戦いで捕らえられた石田三成を罵倒した、等)から、「戦には強いがうかつな猪武者」というイメージでとらえられがちです。
「信長の野望」シリーズでもだいたい能力値が武力特化で設定されています。
秀吉子飼いの猛将として並べられる加藤清正とセットでよく作品にも出てきますが、加藤清正が築城の名人だったり農業振興につとめたことから、それらの作品ではコンビの「じゃない方」感も否めないところです。
へうげもの(山田芳裕)とか、わかりやすくそうでしたね。
しかしながら、高井野藩での治世は仁政であったと伝わっています。晩年の検地帳からは年貢の減税措置についてもわかるそうです。広島でも在任中に石高は増していたそうで、内政にも心を割いていたのでしょう。福島正則の死後、幕府への対応のまずさ等もあって福島家は大名としては途絶えてしまいます。このあたり、幕府の執拗な意地悪の結果だったのか、家臣も含めて福島家の危機感が広島時代に引き続き足りなかったのか、気になるところです。福島正則は桶屋の息子さんで、大名になったと言っても急づくりの大名家ですから、家臣団の層は厚くなさそうですが…。うーん。調べ不足なのでここらへんで。
さて、福島先輩、どのようなことを考えて晩年を過ごされたのでしょうか。特に関ヶ原は「関ヶ原、東軍側についたのは早まったかなぁ。」だったのでしょうか「三成あいつだけは許せねぇからあれはあれでよし」だったのでしょうか。「どこでどうしたらもっとうまくやれたか」等考えることは無かったのでしょうか。
私は過去の失敗を思い出して「うあー」となるときや、過去の選択が「この選択は間違いだったのでは」と頭の中をぐるぐるする時は、何もかもがどうでもよくなるまで温泉につかりますが、福島先輩も温泉に入ったのでしょうか。
とりあえず、愛知、広島と生活してきた方ですから「信濃寒い」とは思っていたでしょうね。
(2)北斎と小布施
葛飾北斎(1760~1849)が小布施へ来信したこと、岩松院の天井絵をはじめとした数々の作品を残していることは有名で、小布施町には北斎館という博物館もあります。
まずおさらい。長野県史通史編第六巻近世三から。
「北斎は江戸本所に生まれ、はじめ木版彫刻の技を学び、ついで勝川春章の門に入った。九〇年の長い生涯に、浮世絵・狩野派・土佐派・琳派・洋風画・中国画などあらゆる画風を学んで一家風をなし、しかも終生刻苦勉学して倦むことを知らず、その情熱は画壇においてもまれにみるところである。また奇行にも富み、雅号をあらためること春朗・宗理・可候・画狂人北斎・画狂老人・戴斗・前北斎・為一・卍など三十数度、その居をうつすこと九三度におよんだ。(中略)
北斎が小布施村をおとずれたのは晩年のことで、まねいたのは高井鴻山(一八〇六~八三)である。鴻山は同村の旧家に生まれ、(中略)多くの学者・文人と交わった。(中略)
小布施来訪をうながした鴻山は、帰郷後北斎のために碧漪軒(へきいけん)と名づけた別荘を建てて待つ。北斎が最初に小布施をおとずれたのは、天保十三年(一八四二)のことである。(中略)数カ月の滞在であった。
二回目の北斎来訪は、鴻山の再三にわたる催促があって、娘のお栄をともなってきた翌天保十五年(一八四四、弘化元年)のことであった。このときは、先の来信の折に約束されていた小布施東町の祭り屋台天井絵の「鳳凰」と「竜」を描いた。(中略)
三度目の来信にさいしても、小布施上町の屋台天井に「男浪」「女浪」の波濤図二枚を描いた。(中略)
波濤図を完成させて江戸にもどった北斎のもとに、一年を待たずして鴻山から再三にわたり四度目の来信をうながす手紙が寄せられた。それは、雁田村岩松院の天井絵制作を依頼したものである。岩松院は南北朝時代に創建されて以後、たびかさなる火災・復興をくりかえしたが、天保二年に再建されていた。その本堂客殿の天井絵の依頼であった。
これまでの東町・上町の屋台天井絵はそれぞれ桐板一平方㍍以内の大きさだったが、岩松院の鏡天井は檜板で縦横およそ六・五㍍、五・五㍍と比較にならない法量であり、画題も「鳳凰図」をもとめられた。(中略)嘉永元年(一八四八)の春から夏にかけて小布施に滞在し、いっきに描き上げた。
(中略)北斎の人並みならぬ気力もさることながら、鴻山の支えも大きい。かれは、北斎にかかる費用のいっさいを負い、小布施における居室「碧漪軒」を建て、もとめに応じて花壇・薬草園づくりをおこなうなど、いたれり尽くせりの処遇につとめた。その底流にはたがいに敬慕しあった人間関係があった。これらがあいまって、北斎畢生の力作を小布施にのこしえたのである。」(P533)とされています。
小布施には葛飾北斎に関する美術館「北斎館」があります。事務局長でもある中山幸洋学芸員を訪ねました。
「北斎」という限られた材料ながらも企画展を年5回装いを変えて実施する気合の入った美術館です。
北斎はなぜ小布施で作品を残していたのでしょうか。という筆者の質問に中山さんは「鴻山の熱心さもありますが、信州までくると自由な製作が出来たのでしょう。」と仰います。
北斎は大河ドラマ「べらぼう」にも野生爆弾のくっきー!さんが怪演していました(キャストには中山さんも驚かれていました)が、当時は同ドラマでも描かれていた幕府による芸術に対する締め付けが厳しい時代。
中山さんは「これなんか幕府にばれるとしょっぴかれますよ。」と指し示すのは同館所蔵の「怒濤図 女浪」。なにが…、と思っていると「額縁を見てください」と一点を指します「ここ、天使を描いてます」と。…。おお、確かに!
西洋画にも通じた北斎は屋台の天井絵の一つ「女浪」にちゃっかり天使を登場させているのでした。確かに、江戸でやって幕府にばれると面倒そう。
なお、着色をしたのが高井鴻山だそうで、天使の存在を知らない鴻山は羽を白ではない色に着色しています。「羽のある人間というと、鴻山の中では天狗のイメージだったんでしょうね。」と中山さん談。なるほど。

「怒濤図 女浪」 
「天使部分の拡大」
なお、小布施の北斎で有名なのはなんといっても岩松院の「鳳凰図」で、岩松院は前述の福島正則、北斎に加えて小林一茶の「やせがえる まけるな一茶 ここにあり」の句の舞台にもなっており、歴史が好きな人を連れて行くととても喜ばれます。
鳳凰図の解説が時間ごとに行われますが、毎回職員さんごとにテイストが異なっており、それも楽しいです。
さて、先日北斎館に訪れた際の企画展は「北斎漫画」でした。北斎のことをとりあげた漫画?百日紅とか?と思っていましたが「北斎漫画」とは人物や動物、風景、妖怪などのあらゆるものを「こう描くんだよ」と弟子の手本とするために描いた全十五編、約1000ページにもわたる画集のことです。
写実的なもの、滑稽なもの、など様々なスケッチが盛り込まれています。
墨田区のすみだ北斎美術館では企画展で「北斎漫画立ち読みコーナー」がありましたが、5歳の娘(普段はすぐに「帰ろう。アイス食べよう」と騒ぐ)が熱心に読んでいました。時代を超えて惹きつけるものがあったのでしょうね。
弟子に直接教える面倒がはぶけるとは言うものの、画集ですので全国に出回るわけで、「授業料を取れなくなるかもしれない」とか「技術は秘術とすべし」とかそういう気持ちが一切ないのがわかります。北斎館は法人の方針で写真撮影すべてOKなのも、この北斎漫画の精神に通じるように思います。
北斎、地位や名誉よりも、とにかく絵を描いていたかったのですね。
北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言ったとされます。
中山さんは「晩年に北斎が記した絵手本の序文には「画を好る児童の為に〜」といった内容がよく登場します。「とにかく絵を描きたい」、ただそれは現在の自分のためでなく、未来の絵師となる人のために描くのだと北斎が語っているのです。そう思うと、小布施に残された作品群も、将来の小布施の人たちに向けたメッセージのようにも感じられます。」と仰います。
北斎はそのとがったキャラクターや、娘のお栄さん(葛飾応為)も画家だったことから数々の映画、ドラマ、漫画にも主役、わき役として登場します。
私が見たり読んだりしたものだけでも、先ほど述べた大河ドラマの「べらぼう」、映画「HOKUSAI」、「おーい、応為」、漫画「百日紅」(杉浦日向子)など、方向性は違えど、どれも奇人っぷりを全開にしています。
なお、私がはじめて北斎のことをググったきっかけは漫画「磯部磯兵衛物語~浮世はつらいよ~」(仲間りょう)でした。「ペンネームが「鉄棒ぬらぬら」とかホント?」と調べて「事実は小説より奇なり」と白目を剥いた次第です。
(3)浄光寺
「小布施を訪ねるのであれば、パワースポットの浄光寺に訪れると良いですよ。実家ですので紹介します。」と飯山市の伊東副市長にご紹介いただき、林文映住職を訪ねました。
浄光寺は坂上田村麻呂の東征の際に建立されたと伝えられる古刹で応永15年(1408年)建立の薬師堂が重要文化財として指定されています。
薬師堂へ向かう石段は無造作に見えますが、姿勢を低くして見れば鼻先が一直線にそろっており、何百年も崩れていないとのこと。ご高齢の住職は石段を飛ぶように上がっていき、見ている私がドキドキしました。
薬師堂を外から拝観していると「鍵をふもとにわすれてきた」と住職。取りに戻りますよとお伝えしても「今日はいいから」とふもとに戻られる。
ふもとに戻ると「実は鍵はわざと持ってこなかったのです。これで次に来る理由が出来たでしょう?次にいらっしゃったら薬師堂の中をご案内しましょう。桜の季節においでください。」と、にやっと笑われた。
浄光寺内には、太い帯の上で演技を行うスラックラインのパークがあり、皆が楽しめれば、と無料で公開されています。当職も挑戦させていただきましたが、初級8級の両足5秒間静止が限界でした。
また、住職のふきこんだ音声ガイド(元アナウンサーでもある住職の朗々とした語りでした)があるなど、寺内にはチャレンジ・工夫がいたるところに見られる施設でした。
安土桃山時代の茶人に丿貫(へちかん)さんという千利休の兄弟子がいて、工夫を凝らしたわび茶の席で名をはせたそうです。利休を招いた際には落とし穴を掘り、泥まみれになったところを湯浴みをさせて着替えさせた上でもてなし、一座建立をなした、というエピソードがあります。
前述の鍵の話や浄光寺内の工夫を見て、丿貫さんってこういう人だったのかもな、と思いました。
境内には小林一茶の「大栗は猿の薬札と見へにけり」の句碑もあります。
(4)所感
前述の郷土史家、小林暢雄さんは印刷業を営まれているということで、自分の研究成果を数多くの本にまとめておられました。まちの景色を切り取った画像クイズを作ってイベントを開いておられるなど「この街がとにかく好きなんだな」というのが感想です。「私の研究は既存の定説と異なるので喧嘩になることが多い。研究もそうだけど、本にまとめるのが忙しすぎて時間が足りない。」と生き生きとされておりました。
また、企画振興部長としてかかわっている「私のアクション!未来のNAGANO創造県民会議」では、正能茉優さん(ハピキラFACTORY 代表取締役)に勉強会「若者は”使いやすい”存在じゃない~地域に関係を育てるマーケティング思考」の講師をしていただきましたが、小布施若者会議に参加した際の高い熱量についての話が印象的でした。
高井鴻山もふくめた前述の方々といい、なんだか住民の町に対する愛着がとても強いエリアのように思います。小布施出身の消防士の友人も「小布施の事なら何でも案内できる。小布施が好きで仕方がない」と公言していました。
自分の住んでいる市町村に対する愛着は長野県民は全国的に高いレベルにあるのではないかと思いますが、私の経験上「このまちが好き」という言葉を政治家以外の人が発するときには、はにかむような、照れるような、そういうこっちがほっこりするような雰囲気を発するものです。小布施の人たちは目をバッキバキにして真正面から言うので、少し怖さすら感じます。
大宮町長に感想を伝えたところ「そこがこの町の強みです。難しさでもありますけどね」と笑っておられました。
2.今回のゆかりの地

①岩松院(長野県上高井郡小布施町雁田615)
曹洞宗のお寺。北斎の天井絵、小林一茶の「やせ蛙」の池、福島正紀の菩提寺、と一粒で三回美味しい観光地。本文の中で結構触れましたね。売店で売ってる鳳凰図の袱紗入れが私のお気に入り。

②高井寺(長野県上高井郡高山村高井堀之内196)
福島正則の屋敷跡があったお寺。碑があります。アポなしでしたが境内をうろうろしているとご住職が「福島正則の関係で来たの?ちょっと待っててね」と寺内に招きお経を上げてくださり、ゆかりの品々を見せてくださりました。フレンドリーさとホスピタリティにびっくりしました。感謝。

③北斎館(長野県上高井郡小布施町小布施485)
本文で記載したとおりです。子供用のオープンスペースもあり、北斎の作品にちなんだ遊具がいい感じです。「本物」、見ときましょう!

④高井鴻山記念館(長野県上高井郡小布施町小布施805-1)
小布施中心部にまちを横切るようにあります。鴻山自身の作品が、当時の雰囲気が伝わる建物内に展示されています。鴻山さん、交友関係が広く、第一回で取り上げた佐久間象山先生ともダチです。さすが「人脈ビジネスに自信ニキ」達。所蔵の「象と唐人図」は作:鴻山feat(下絵)北斎です。私の秘書の寺島さんのお気に入りの一作。彼曰く「デカくて強そうなので好きです。」とのこと。

⑤浄光寺(長野県上高井郡小布施町雁田676)
本文で記載したとおりです。スラックライン、次回訪問時にはもう少し上手くなりたいですね。

⑥すみだ北斎美術館(東京都墨田区亀沢2-7-2)
北斎についてこの原稿を東京で書いている際に「あれ、行ける距離にあるじゃないか。」と気づいて娘を連れて訪問。
外国人観光客で大変にぎわっていた。デジタル展示や外国語での案内に優れている印象。常設展では北斎とお栄さんの人形(「北斎仮宅之図」(露木為一)がもと?)も展示しており、時たまゆっくり動くのでびっくりしました。
隣接する公園には北斎生誕の地があります。
♨温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」
「穴観音の湯」(長野県上高井郡小布施町雁田1194)
泉質は硫黄泉(含硫黄―カルシウム・ナトリウム―塩化物温泉)。pHは8.37の弱アルカリ性。福島正則が岩窟に安置した観音像「穴観音」の周囲に創業者が「温泉を掘りなさい」と夢の中で受けたお告げをもとに掘削された温泉、というありがたい由来の温泉です。
硫黄分の濃いいい意味で「癖のある」温泉です。次の日も体から硫黄の臭いがします。露天風呂から眺める景色(山々と田園風景!)が好きなので、昼間に行くのがおすすめです。
年中無休(!?)、午前10時~午後10時までです。







