信州自治

首長随想
2026年4・5月号

「坂木宿 中之条の名代官 男谷燕斎」~燕斎作品展示会のご案内~

坂城町長 山村弘

皆さんは、男谷思孝(燕斎)、(1777年安政六年~1840年天保十一年)をご存じでしょうか。彼は、江戸後期、中之条代官をつとめた幕臣で能書家であり、名奉行といわれた人物です。
旗本男谷平蔵忠恕の長子で、男谷(米山)検校の孫にあたります。(米山検校は盲人としての最高位の検校に昇進し、旗本男谷氏の株を買い男谷検校となる)

また、平蔵の三男が左衛門太郎惟寅(勝小吉)で、勝海舟の父です。
したがって、思孝は勝海舟の叔父にあたります。

男谷思孝(燕斎)は寛政十二年(1800年)に表右筆となり、「寛政重修諸家譜」や「藩翰続譜」の編修、韓聘書簡の写字などにあたります。

その後、文化十年(1813年)から文政四年(1821年)まで8年にわたり坂木、中之条代官をつとめ、文化十一年には追分貫目改所と信濃一ヶ国総取締を兼任しています。
文政四年には越後水原陣屋へ移り、その後、二丸御留守居役、西丸裏御門番之頭、そして、天保八年(1837年)に小十人組頭をつとめました。

この間、弟の勝小吉は文政二年(1819年)、男谷燕斎を訪ね、坂城へ来ています。

勝小吉の「夢酔独言」によると、以前にも坂木へ来たことがあるようですが、以下のような記述をしています。
「十八の年、また信州へいったが、その年は兄きが気色が悪くって(健康がすぐれず)、榊木という村の見所場の検見をおれにさせたが、一番悪処の場へ棹を入れて・・・」など村民にとって大変有利な検地を行なったそうです。
これも勝小吉らしい裁きのようです。

その後、いくつかの喧嘩事を処理したことも記述されております。誠に勝小吉の小気味よい行動が坂城中之条を中心にして書かれています。

男谷思孝は、能書家としても有名で、燕斎と号したわけですが、師事する者が多く、中之条代官在任中に揮毫した書が坂城内外に数多く残されています(中條神社の扁額や甘泉の碑名なども)。

坂城町の鉄の展示館では、平成30年に「男谷燕斎の書 ~幕府祐筆の手跡~」と題して、30点以上の書を公開展示し大好評をいただきました。

この展示会以降、新たに入手した新資料を中心に、「男谷燕斎の書II」として、展示会を開催いたします。

会期は11月18日から令和9年1月31日まで。ぜひ、大勢の皆さんのご来場をお願いいたします。