信州自治

信遊記
2026年8・9月号

信遊記~第十回 佐久の国境を攻める~

  • 長野県企画振興部長 中村徹(監修:長野県立歴史館 村石正行先生)
  • 長野県

1.前置き

先日、小海線の「HIGH RAIL星空」に乗りました。

普段は新幹線・高速道路で長野県を出入りすることが多いですが、はじめてのルートで県境を越えるとワクワクしますね。残念ながら曇っていて星空は観られず。

県で仕事をしていると、県内の市町村の名前が入った地図をよく見ます。よくあるのが県の形がドンと描いてあって、中に市町村の区割りが示されており、周りが白い、そうそう、こんな感じの地図です。

出典 長野県HP https://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kids/menu02/sityoson.html

これって必要な情報だけが入っていて便利なんですけど、県境にある市町村が世界のはしっこにあるように錯覚してしまうリスクがあります。ですが、もちろん長野県境は断崖絶壁でも海でもなく(海いいね!って人は居るかもしれませんが)、地図の外にも土地はつながっています。

長野県に限らず、所属している都道府県よりも隣の都道府県との経済的・文化的なつながりが強い市町村はざらにあります。

今回は長野県を見渡して東の県境を多く有する佐久地域をとりあげます。

さぁいってみましょう。

なお、今回何か所かの取材は監修の村石先生にご一緒いただき、解説つき(そして温泉付き)で回りました。歴史好きとしては鼻血が出そうなほどの贅沢です。いつも感謝しております。

2.佐久をいろいろ回ってみた

(1)小諸城(長野県小諸市丁311)

①概要

小諸城は小諸市にある城郭です。市街地よりも低い場所にあるので「穴城」と呼ばれています。通常高い位置から敵の軍勢や城下町の様子を見下ろせるように設計される城の常識からして、大変珍しいものでしょう。交通の要衝という地形から、戦国時代には武田家の拠点となっていたそうです。

現在の形にしたのは仙石秀久。「センゴク」(宮下英樹 講談社)の主人公で知られる人物です。(「センゴク」は敵勢力の紹介をしている場面が好きです。格闘技の選手紹介とか、M-1のコンビ紹介みたいでワクワクします。)

仙石秀久は豊臣秀吉の子飼いの家臣として活躍し、九州征伐において島津軍相手に大ポカをやって所領没収、高野山に追放されるも、小田原征伐に参陣し、復帰を許され小諸城の城主となります。

関ヶ原の戦いでは東軍につき、その際に行われた第二次上田城攻防戦では居城の小諸城も徳川秀忠の拠点となりました。(それで間に合わなくなって出発し、第6回で取り上げた妻籠城で「関ヶ原終わったのか…」をやるのですね。)

仙石秀久の子である忠政が上田に去った後も小諸城は小諸藩の藩庁として使用され、明治維新を迎えます。

②小諸城のあれこれ

小諸城のあたりは浅間山の火山噴出物が堆積した地形であり、現在の堀の部分は河川により浸食されて作られています。火山噴出物がベースなので、地形としては脆いです。1742年の大洪水「戌の満水」では城下にも大きな被害が発生し、城の構造物にも被害が出ました。

小諸城には天守台や二の丸等の郭跡、重要文化財に指定されている大手門(横には蕎麦スイーツなどが食べられるおしゃれカフェ!)、三之門などの構造物がありますが、奥の遊歩道からダムの方に降りていくと小諸城のまた違った一面が見られます。

穴城と呼ばれる小諸城ですが、それは街の方から見た景色。川の方から見上げるとかなり切り立った台地の上に城郭施設があったことがわかります。小諸城は「山城」なのです。

 

小諸城

③その他

小諸城にはそのほかにも懐古園、島崎藤村記念館、遊園地(ツインドラゴンが結構怖い)、動物園等があり、一日遊べる拠点です。小さなお子さんがいらっしゃれば是非お勧めしたいスポットです。

(2)西念寺(長野県佐久市岩村田本町1188)

佐久市にある浄土宗のお寺です。1560年、武田信玄の帰依を受けた岌往(きゅうおう)上人が建立しました。武田信玄の信濃進出時に、あたりを焼き払ったあとに作られたとのこと。宗教的な支配の拠点という意味や、復興の意味もあったのかな。長野県のお寺には「武田信玄進出時に建立」「武田信玄進出時に改修」というものが結構ある気がします。

武田・上杉の争いでの地域の荒廃(どっちも、すぐ火とかつけるんですよ。)や、武田流の現地支配のやり方(全部ぶっ壊すというより、婚姻政策等による家柄の乗っ取り、宗教による心理的な面の重視。いずれも中世的な価値観があるので、今の世の中の我々が感覚的に理解するのは少し難しいところがあるかもしれませんね。)があるのでしょう。

西念寺

小諸藩(仙石家)、岩村田藩(内藤家)の菩提寺で、境内には立派な墓所もあります。

ご本尊の阿弥陀如来座像は県宝。平安末期に製作されたものです。

また、本堂内には武田信玄、10代までの徳川将軍家、岩村田藩主内藤家歴代、仙石秀久の位牌もあり、歴史を感じさせます。

(3)龍岡城(長野県佐久市田口下町3000-1)

①概要

龍岡城は江戸時代末期に築かれた龍岡藩のお城です。このエッセーの中でもお城を多く取り上げてきましたが、このお城は普通のお城じゃありません。なんてったって日本に2つだけ現存する五稜郭の一つです。もう一つは言わずとしれた函館五稜郭、土方歳三や榎本武揚が戦ったあの五稜郭ですね。

このお城を語るには松平乗謨(のりかた)(1839~1910)というお殿様を語る必要があります。

②殿様 松平乗謨

乗謨さんは三河の奥殿藩に生まれます。奥殿藩は今の岡崎市に本拠を有していましたが、飛び地として信濃国田野口を領していました。1852年に家督を相続以降、1863年に大番頭(「ばんとう」じゃなく「ばんがしら」。警備、軍事担当です。)、若年寄、1865年に陸軍奉行、1866年に老中、1867年には陸軍総裁と幕府の役職を歴任します。

奥殿藩は1万6000石の小藩で、老中などへの登用は異例のことなので、乗謨さんの優秀さがうかがえます。20代、新進気鋭です。

この間に、徳川家光以来、各藩の財政を削りまくってきた参勤交代が緩和されたことをきっかけに乗謨さんは本拠地を田野口に移転します。三河の領地よりも信濃の領地の方が石高(生産量)が高く、藩政上都合がよかったようです(藩の名前も「田野口藩」になります。)。

「陣屋」と言われる政庁も移転する必要があり、新庁舎として作られたのが龍岡城です。

乗謨さんは西洋式の築城に興味を持ち、龍岡城の設計についてもかなり自分で指示出ししていたようです。
戊辰戦争後に陸軍総裁を辞した乗謨さんは新政府側に恭順。明治維新後は藩知事になりますが、藩の財政が悪すぎて廃藩置県前に廃藩。その後、勲章局の副総裁、総裁、貴族院議員、枢密顧問官などを務めます。

勲章については、海外の勲章を見て「日本にも導入すべし!」と陸軍総裁の時に提案して幕府に認められなかったものを明治維新後に再チャレンジして導入したもので、ここにも乗謨さんの新政策へのこだわりが見られます。

そうそう、この間に改名をし、大給恒(おぎゅうゆずる)という名前にクラスチェンジしています。

元佐賀藩の佐野常民(「だんドーン」のスピンオフ「さがドーン 〜江藤新平と肥前の妖怪〜」(泰三子 講談社)に出てましたね!)と一緒に、日本赤十字社の前身にあたる博愛社の設立も行っています。

③築城後の龍岡城

龍岡城は直接の戦闘は行われず明治時代を迎え、建物は一部を残して除却、小学校等の用地として使われ、今も観光に訪れることが出来ます。併設されている「五稜郭であいの館」に予約すれば、旧建物の見学も可能だそうです。

五稜郭のような稜堡式城郭のメリットとして、その戦闘力(向かってくる敵に対して、稜堡が出っ張っていることから二方面以上からの射撃が可能など)がありますが、龍岡城は

  • 近くに山があり、大砲を据えられると上から一方的に撃たれる
  • 板を渡せば歩けそうなぐらいに堀が狭い
  • 砲台を各稜堡に設置するはずが、一つの稜堡にしか設置していない

などから、戦闘用というより乗謨さんの趣味的な部分を反映したのであり、政庁としての顔が強かったとも言われています。

役所の庁舎なんかも、隈研吾さんプロデュース的な庁舎は
「おしゃれ!」「すごい!」「かっこいい!」→「先進的なことやりそう!」
というイメージ戦略もありますよね。

そういう意味で龍岡城も「西洋式で進んでる!」「ここの藩すごそう!」と内外に思わせる意味があったのではないでしょうか。

④乗謨さんと仕事したい

さらっと乗謨さん(恒さん)の功績を上述しましたが、すごくないですか?

陸軍総裁としての幕府軍の洋式化、西洋式の龍岡城の建築、勲章制度の導入、博愛社の設立(コロナ禍や災害でも活躍した長野赤十字病院をはじめとした長野県内の赤十字病院も、おおもとは乗謨さんなのです)、と、そのどれか一つでもやっていれば「すごいよね」と言われることをガンガンやっています。アイデアと行動力の塊、イケイケです。

江戸時代の武士というのは公務員ですが、大変個人的な感想として「今の世の中なら、役所の事業部門を歴任するのがご本人にとって幸せなのではないだろうか。」と思ってしまいました。
まちがっても管理部門(財政担当部署や人事担当部署)ではないです。田野口藩(改名して竜岡藩)も財政悪化で全国に先んじて廃藩しています。

さらに勝手な個人的感想として「乗謨さん、がっつり管理職として全体を見渡してバランスの取れた仕事をする、というよりも国の省庁だったら課長補佐~企画官ぐらいのプレイングマネージャーとして(係長や係員に微妙な顔をされつつ)新規事業を自分でゴリゴリ提案してゴリゴリ進める、的な仕事が好きそうだな」と妄想します。

私は常々「企画振興部が暗い顔してちゃしょうがない!イケイケでいきましょう!ガンガン攻めましょう!」と部の会議等で申し上げていますが(部の皆さんには大変ご苦労をおかけしていると思います。この場を借りて感謝とお詫びを申し上げます。)、乗謨さん、企画振興部の仕事とか好きなんじゃなかろうか。

乗謨さんの功績はもっと知られても良いと思います。県庁内での知名度だけでも上げられるよう、イケイケな仕事をしてくださった方に「乗謨賞」とか表彰してみようかしら(佐久市さんもやりませんか。)。

  • 龍岡城
  • 小さい堀

(4)南牧村美術民俗資料館(長野県南佐久郡南牧村野辺山79-3)

南牧村の野辺山に所在する資料館。野辺山近辺で発掘された細石刃などの石器や八ヶ岳の火山に関する展示が丁寧にされています。

しかしながらここの目玉は復元された縄文人「志なの」さん。南牧村の林道の工事中に発見された洞穴「志なの入遺跡」から人骨が2体出土し、信大医学部の鑑定で縄文人と判明。この一体をもとに復元されたのが「志なの」さんです。愛称は地元のお祭りの来場者投票で決定。同資料館に展示されています。

説明書きによると、
「50代の女性、身長は144㎝ほどとみられ、約5600年前に亡くなったと推定されている。上半身は華奢だが、下半身は頑丈である。小顔だがアゴは頑丈で、小さめの前歯が平らにすり減るまで使われていて、軽い顎関節症を起こしている。粗雑な固い食物を食べていたと思われる。
一部に虫歯や歯槽膿漏もみられる。妊娠出産した子供は、1人か2人、あるいは1人もいなかったかもしれない。一般にたくさんの子供を産んだ縄文人のイメージとは異なる。」
とされています(妊娠出産のとこ、幅めっちゃあるな…。)。

志なのさん

非常に愛嬌のある顔つきで、なんだか近所に居そう。きっとたこ焼き屋でおまけしてくれるタイプです。

ところで、小林達雄先生の「縄文の思考」(ちくま新書)では、「縄文住居の炉の実像に立ち戻って触れておくことがある。炉で火を燃せば燃すほど、煙が立ちこめて、眼を開けていられないほど苦しく、咳が出たり、涙があふれたり、たまらない思いをすることがある。この現実を直視して初めて縄文人に接近し、血を通わすことができるのである。博物館に復元された住居の中で縄文家族がこざっぱりした顔つきで炉を囲んでいる姿は虚像なのだ。」(P97)とあります。

志なのさんも割とこざっぱりした顔つきですが、これは川近くの洞窟で発見されたので、顔を洗った後なんでしょうね。

同館では人骨そのものも展示されていますが、とても状態が良いので、「これ、発見した時には事件性があると焦ったんじゃないかな」と心配したりしました。

(5)川上村文化センター(長野県南佐久郡川上村大深山348-9)

川上村にある資料館で、県宝「人面香炉形土器」や近くから発掘された土器類がたくさん展示されています。私はあまり土器には詳しくないのですが、長野県に来てからたくさんの土器を見て関心を持つようになりました。まだ楽しみ方が確立できていませんが、「何に見える?」「どう使ってたの?」「家に持って帰れるならどれ持って帰る?」等の見方で楽しんでいます。人面香炉形土器、宇宙人っぽくて楽しいですが、その隣に展示されていた「釣手土器」もかわいい。

  • 人面香炉形土器
  • 釣手土器

皆さんの土器の楽しみ方があれば教えてください。

同館では川上村の近代につながる歴史もわかりやすく解説されています。川上村では稲作が出来る土地が潤沢にはなく、金山の掘削や商品作物の育成、馬の生産・売買、養蚕などに支えられていました。このため周辺の村々とは少し別の歩み方をしていたようです。

川上村といえばレタスですが「周囲と違うことをしてしっかりと稼ぐ仕組み」の根っこはこのあたりにあるのかもしれませんね。

(6)北相木村考古博物館(長野県南佐久郡北相木村久保2744)

栃原岩陰遺跡の出土品などを中心に縄文時代を手厚めに展示された博物館です。洞窟の再現や、遺跡の復元など、遺跡自体に行くのはなかなか難しいところを感覚的に味わえるように展示してくれています。

(4)や(5)と合わせて、縄文の雰囲気を感じに行かれてはいかがでしょうか。以前北相木村に行った時に訪問したのに、写真を撮り損ねるというミステイク!痛恨です。

縄文に関しては、長和町や茅野市など、長野県は豊富な資源を有しています。他にも増して切り口が難しい分野ですが、いつかチャレンジしたいなぁ。

(7)熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町峠町1)

皇大神社

軽井沢にある神社です。長野県側、群馬県側にそれぞれ神社があり、これは「信州」「上州」の時代から変化ありません。

創建者は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)!以下神社の看板から。

「景行天皇40年(西暦110年)皇太子である日本武尊は東国を平定し、武蔵、上野を経てこの碓氷坂に差し掛かったが、濃霧にて道を迷われた。その時、一羽の大きな烏(=八咫烏:ヤタガラス)が紀州熊野山の梛木(なぎ)の葉をくわえ来て、御前に落としながら道案内をし、尊は無事頂上に達することが出来た。
碓氷峠の頂上に立った尊は棚引く雲海より海を連想され、旅の途中で相模灘(=東京湾走水)で入水された「弟橘姫(おとたちばなひめ)」を偲び、「吾嬬者耶(あづまはや)」と三度嘆かれたという。以後ここより東の国を、吾妻(あづま)と呼ぶこととなった。(日本書紀より)」

ですので、ここから東、すなわち上州から東があずま、東国ということになります。信州は東国のようなイメージでしたが、そうではなかったのですね。

長野県側の神社ではドラ〇エ風・ジョ〇ョ風のお守りや、ゲームカセットのような絵馬、御朱印帳「冒険の書」(大丈夫?)などユニークな商品(?)を売っていました。また、ペットの「犬康長寿 肉球安全」を願う「王皇神社(わんこうじんじゃ)」、マツダのロードスターを祀る「星乃道神社」(軽井沢では毎年「ロードスター軽井沢ミーティング」が行われており、そのご縁だそうです。元広島市ものづくり支援課長の私としてはご縁を感じます。)、なぜか境内に設置された「あのドア」(写真は村石先生)など、遊び心たっぷり。

  • おまもり
  • 「あのドア」をあける村石先生

巫女さんに「宮司さんがアイデアマンなのですか?」と聞いてみたところ「もう、なんか止まらないみたいで…。」と仰っていました。宮司さんに乗謨賞を贈与しましょう。

3.その他

ふらっと観光的に行ける場所ではないので本編には記載しませんでしたが、以前、南相木村の依田明善県議会議長のお宅に伺い、亡くなられたお父様の著書や収集物を独自に作られた記念館で拝見しました。お父様の依田武勝様は県議会議員でもありましたが、歴史の研究家として著書を何冊も執筆しておられ、その内容もかなり気合の入ったものでした。依田家も源氏から派生し、今回取り上げた小諸城の主を一時務めた依田信蕃(家康に評価されながらも天正壬午の乱で死んでしまった「もっとやれたはず名将」。またの機会に。)の子孫です。著書の数々を拝見していると「地縁も声望もある方が本気で取り組むと、ここまでのものが出来るんだ…」と圧されるようでした。薄口エッセーを書いている私が言うとお叱りを受けてしまいそうですが、ご存命の時にお目にかかりたかったなぁ、と偲びます。

佐久地域は鯉食の文化や蓼科牛、プルーン、高原で作られた野菜(なんかレタスとかそのままでも甘い)、湖底浪漫(小海町の松原湖の湖底で低温熟成させた日本酒。おいしい上に度数高めなので危険。)のような特色あるお酒、などなど食文化の面でも非常に魅力的なエリアです。また、特色ある教育機関などを目指して教育移住をしてこられる方も多く、面白い地域の一つと言えます。

今回「国境を」ということで文章を始めましたが、まさに長野県の玄関口の一つとして、外から来た人を歓迎しているとも捉えられます。

日本全体で本格的に動き出す二地域居住の施策なども含めて、今後の地域の展開が職務としても個人としても楽しみです。

♨温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」

「菱野温泉 常盤館」(長野県小諸市菱平762-2)

泉質は単純温泉。pHは7.46。温泉旅館常盤館の温泉です。

ここはすごいですよ。展望露天風呂「雲の助」にはなんと登山電車、ケーブルカーで向かいます。ケーブルカーは自分でボタンを押して発車するタイプで、その時点でワクワク。

ケーブルカーの付いた先にはカフェ&バー「時刻表のない待合室」(湯上り処)。露天風呂には絶景を眺める「そらふろ」、内湯(と言っても外だけど)の「いしふろ」、ゆったりソファで休める露天スペース「ととのい」、水風呂の「みずふろ」があります。私が行った7月には「みずふろ」の温度も少し高めでしたので、温泉と水風呂とととのい、でゆったり過ごすことができました。

ほんとに絶景です。

泉質も体に負担の無い単純温泉なので、長時間入っても湯あたりするリスクも少なく、まさに「ゆったりしに行く」場。

日帰り入浴の営業時間は11時~14時30分(8月以外の平日は16時受付終了)。料金は大人1800円(8月以外の平日は1500円)、3歳~小学生750円。

今まで取り上げてきた温泉と比べると少し料金は高めですが絶対に行く価値アリ!

 

 

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