1.はじめに

信州には中央から来た人間に優しく接してくれる風土があります。
古代の建御名方命(タケミナカタノミコト)は大国主命(オオクニヌシノミコト。因幡の白兎、など、古事記の前半のヒーローですね。)の息子ですが、国譲りの神話の際に国譲りに反対し、建御雷神(タケミカヅチノミコト)に敗れ、追われ追われて諏訪大社の祭神となっています(諏訪はまた取り上げたいテーマ!)。
以前取り上げた木曽義仲も中央の政争に敗れて木曽に逃れ、力をつけてひと花咲かせました(以前木曽義仲を取り上げた際には気づいていませんでしたが、劉邦と天下を争った項羽も義仲と同い年の31歳で亡くなっていましたね。偶然だと思いますが。保元の乱を取り上げた保元物語には、史記の項羽についての記載がオマージュされていたり、面白さを感じます。)。
「逃げ上手の若君」で一躍ヤングにも知名度が上がった北条時行(鎌倉幕府最後の執権である北条高時の子)も、鎌倉幕府滅亡時に諏訪大社に庇護され、その後、力をつけて、一時は足利直義(尊氏の弟)の治める鎌倉を取り戻す活躍を見せます(中先代の乱。先代(北条)と当代(足利)の間、ということで中先代、という言葉が使われています。)。
このように、土着の人間ではなくとも、温かく迎え入れる土壌が信州にはありますが、それは中央の人間を唯々諾々と受け入れていたわけではなく、「信濃側が巧みなバランス感覚を持って中央との関係を構築し、信濃の利益に合わない人物は排除も辞さなかった」というのがわかるのが大塔合戦。
お恥ずかしながら、県立歴史館の笹本先生の「川中島の戦いは二つあった 父が子に語る信濃の歴史」(笹本正治 信濃毎日新聞社。以下「笹本本」という。)を読むまで私は「大塔合戦」というものを知りませんでしたが、現代にも通じる教訓深いお話。読んでみて身が引き締まる思い。
今回そういう話です。
2.小笠原氏と信濃

(1)はじまり
小笠原について皆様ご存じでしょうか?私は「信長の野望で武田にすぐ潰される系大名」「小笠原諸島」ぐらいのイメージで、「逃げ上手の若君」を読んで「信濃の大守護」にランクアップされたものの「松本ベースなのに飯田も「小笠原?」ようわからん」と思っていました。
小笠原小笠原とたくさん人物が出てきますので、飯田市HPから家系図を張っておきます。また、あまりに人物が多くて時代感もわかりにくいので、今回は生年没年を可能な限り入れています。
(出典 飯田市HP https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/ogasawarashi.html)
小笠原氏と信濃のかかわりは、鎌倉時代にさかのぼります。「長野県史 通史編 第三巻 中世二」(長野県編。以下「長野県史」という。)には「小笠原氏は甲斐源氏で、源頼朝の部将加賀美遠光(筆者注1143~1230)が信濃守に任ぜられたのが、信濃との関係ができたはじめである。その次男長清(筆者注1162~1242)が巨摩郡小笠原(山梨県櫛形町)に住んで小笠原と称した。長清は承久の乱の賞として阿波の守護に任ぜられた。長清の孫時長・光長は佐久郡に所領を得て、それぞれ伴野氏、大井氏の祖となった。」とあります。
小笠原氏の名が華々しく出てくるのは南北朝時代です。足利尊氏に従った小笠原貞宗(1292~1347)は信濃守護として任じられ、前述の北条時行の中先代の乱やその後の乱で足利方として存在感を示します。
前述の「逃げ上手の若君」では小笠原貞宗が時行の敵役としてかなり取り上げられています。最初は色物のように扱われていましたが、出番を重ねるにつれかなり格好よく取り上げられており、私は松本市役所の皆さんには「小笠原貞宗がジャンプの人気漫画でフォーカスされることなんておそらく今後ないですよ!諏訪だけじゃなくて松本もコラボした方が良いですよ!」と強くおすすめしています。
小笠原貞宗は弓馬の道、礼法にも優れ、後醍醐天皇から武士の手本として「王」の字をもとにした家紋を使うことを許された武将でした。
府中に井川館(松本市)を構え、伊賀良(飯田市)も拠点としながら南北朝時代を戦い抜きます。
貞宗の子、政長(1319~1365)、その子の長基(1347~1407)と守護職が継がれていきますが、長基の時代に守護職は上杉朝房に、その後、斯波義種に変わります。このあたりから、村上氏に代表される国人(在地領主)による反乱が発生します。斯波義種が守護の際には強権的な政治が敷かれたらしく、元守護である小笠原長基も反乱に加わるなど、信濃の地は混乱が続きます。
ごちゃごちゃです。まぁ世の中ごちゃごちゃの南北朝・室町初期ではありますが、なぜこの時代の信濃、こんなにごちゃごちゃだったのでしょうか。
- 守護やその手先である守護代による強権的な対応があったこと、
- 室町時代の守護の役割から守護自身が京都に在任しており、領国に対するかかわりが少なかったこと、
- 南北朝の騒乱が収まりつつも、まだエネルギーが残っていたこと
などが、反乱発生の理由として考えられるところですが、監修の村石先生、このあたりどうですか?
村石先生「信濃の管轄に着目すると良いですね。当時の信濃は京都と関東との境界。管轄権が将軍のいる幕府と鎌倉公方のいる鎌倉府で交錯します。斯波氏は管領の家柄、小笠原も幕府方です。一方、上杉氏は関東管領にもなっており、鎌倉府方です。鎌倉府は幕府からの独立志向があり、斯波、小笠原が信濃守護になっているのは、幕府の鎌倉府への牽制という意味合いがあります。また、鎌倉府は親南朝派、親足利直義(尊氏の弟で、観応の擾乱で尊氏と対立。)派の色合いも受け継いでいました。国人たちにも親南朝、親直義派も多く、これが信濃の混乱を深くする要素と考えられますね。」
なるほど。信濃全体が将軍(京都)と鎌倉公方(関東)の綱引きの影響をもろに受ける境界だったのですね。
反乱した領主たちも、守護へは反発するものの、政権そのものを否定するつもりはなく、「幕府そのものへの反乱」と見られないよう配慮がなされているのも「生き残りの知恵」として面白いです。
(2)大塔合戦
①小笠原長秀の守護就任
さて、しばらく守護職から離れた小笠原氏ですが、長基の子、小笠原長秀(1366~1424)が室町幕府の三代将軍足利義満に嘆願して守護に任ぜられます。
長野県史によると、長秀の継父である畠山基国が管領職に就いたことが、長秀の守護返り咲きの一因と論じられています。
信濃に入る際に、長秀は信濃の在地領主たちにかなり気を遣っています。国人反乱がおこる際のリーダーとなる村上氏には手紙を送ったり、同族である大井氏とは信濃統治の打合せを行ったり、慎重な様子です。
一方で、犀川流域を中心とした国人たちの連合である「大文字一揆」の人たちは、長秀を受け入れるか否か議論になります。
「将軍に任じられた守護であるわけだし…」という声と「我々と小笠原氏は故敵当敵(古くも現在も敵)、許すまじ」という声があり、結局、「別の人を守護にしてくれ」と幕府に申請しています。
待ってください、待ってください、前述の通り、小笠原氏は斯波氏への反乱には名を連ねていたのに、「故敵当敵」とはどういうことでしょうか?村石先生!
村石先生「はい、このあたりの動向は難しいですね。先ほども言ったように、信濃の国人たちは南朝派が多くいました。また、上杉氏(関東管領であり鎌倉府方。また、直義派の色合いがある)の支配の時代にその被官となっている国人もおり、そのあたりが将軍から派遣されている小笠原氏に対する反感につながったのだと思われます。」
難しい!まぁ度重なる合戦で「あいつにはうちの叔父が殺された」とかもあるでしょうから、もう人間関係的にこじれまくっているのでしょうね。そんな状況下での守護、私だったらやりたくないけどなぁ……。
さてさてそんな中、長秀は統治のはじめとして善光寺に入ります。国府があったのは松本市のあたりですが、善光寺は当時の信濃の政治・経済・宗教の中心であったわけです。
この際の行列は大変に華美なもので、都から来た長秀の権威を示すものでした。
その後の様子について長野県史では「善光寺にはいった長秀はまず奉行人を定めて、大犯三ヵ条(守護の基本的権限)の趣旨にそった制札(禁令事項を書いた立札)を立て、慣例にしたがって政務をとった。まさに臨時の守護所である。ところが長秀は、願いや訴えごとのため群集する国人に対面しても、一献の用意もなく、扇ももたず、さながら傾城(遊女)のような振舞いをし、長い間、将軍のそばに仕えてきた人とはみえなかったという。」(P94)とあります。
長秀、政務の方針はまっとうだったようですが、守護らしい立派な態度ではなく、それが信濃の人々に眉をひそめさせたそうです。
先日、ある首長さんに懇親会の折に「中村部長は国の役人という感じがせんね!」と仰っていただきました。
広島市勤務時代にも親交を持っていただいた町長さんに「中村さんはあれじゃのう!総務省ちゅうより吉本じゃのう!」と仰っていただいたこともあります。
大阪出身の私の中では「吉本新喜劇>国の機関」という構図が何の疑問もなく確立しており、辻本茂雄(新喜劇の名コメディアン)が幼い頃からの私のヒーローです。「へへへ最高の誉め言葉です」とへらへらしておりましたが、小笠原長秀の例を考えるとイエローカードなのかもしれません。ここは路線変更して威厳のある部長を目指しますか。……もう無理でしょうね。
②GONG鳴らせ!!
大文字一揆の人たちは、善光寺へ入った長秀に対面するか否かでまたもや議論になりますが、「幕府から任命された長秀を否定することで、反幕府的と見られてはいけない。長秀にいったん挨拶をして、長秀が規定外の賦役をかけてくるなどの強引な統治をしたら反抗しよう」という結論になります。とりあえず、一献の用意をし、馬や太刀などを贈って礼をつくしました。
(1)で書いたように、「幕府そのものへの反乱」と見られることへの警戒が強いわけですね。
長秀はこれに喜んで一国平穏の思いをしたわけですが、これに油断したのか、各地に守護使を派遣して、課役を行い、諸々の徴収をはじめます。これに既得権を侵害されたと怒った大文字一揆の人たち、北信地域のリーダー村上満信、諏訪神党として名をはせた佐久三家(禰津、望月、海野)は国一揆と称して守護使を追い立て、打ち殺します。国一揆側は強訴のために兵を起こします。さぁ、大塔合戦のGONGが鳴りました。
③大塔合戦~もう一つの川中島の戦い~
始まりました大塔合戦。長秀側の軍勢は800余騎、国一揆側は3300余騎と兵力差は歴然でした。
笹本本では「長秀は「しばらく寺にたてこもり、京都へ使者を出して、他国の助けを求めるか、あるいは小勢ではあるがまず一戦するか」と述べた。(中略)長秀の意見に飯田入道が「合戦もしないで幕府に注進(事件を急いで報告すること)するなどは思いもよらぬ。戦って万死に一生を得たならば、そのときこそ注進すべきだ」と発言し、一同も同意した」(P138)とあります。
このやりとり、極めて役人的、役所的だと思いませんか?
「何もしないで上に助けを求めるなんてみっともないから、まずやってみてダメだったら助けを求めよう。」です。
平時であればアリですが、危機管理的にはNG。ほら、皆さん若手時代に先輩に物を聞いて「それ、まず自分で調べたの?」と叱られた記憶ありませんか?
その経験があるので、まずできる範囲まで対処して、その後で相談に行くのが通常時の役人の業務(これが基本!平常時は正しい。)ですが、例えば災害時に「叱られるから、先例を調べてからぁ…」とやっていると機を逃しますし、そのタイムロス等で余計にひどい事態になります。
閑話休題、戦に臨んだ両勢は篠ノ井、川中島のあたりでぶつかります。
笹本本にちなんで「もう一つの川中島の戦い」と見出しをつけましたが、武田上杉の川中島の戦い以外にも、木曽義仲と平家方の城氏の戦いなど、軍勢がぶつかるのに適した平地だったということでしょうね。
長秀方は寡兵よく奮戦して部分的には勝利もおさめますが、最終的に敗れ、長秀は逃亡。残った将士は大塔の古要害にたてこもります。
準備もしないままの籠城だったので食料にも乏しく、「兵糧を欠いての苦しさに、下層の武士は馬を刺し殺して肉を切り、口より血を流しながら喰うありさま」(長野県史P100)でした。そして「二二日間にわたる籠城のすえ、ついに飢えと寒さに力つきた小笠原勢は十月十七日の夜、大手・搦手の戸張を開いて切って出、三百余人ほとんど戦死・自害をとげた。」(同)とあります。
この戦の悲惨さは笹本本に詳しく記されています。
京都に逃げ延びた長秀は守護職を解任され、弟政康(1376~1422)に所領を譲り、出家。信濃の守護は斯波氏に一時戻され、そののち幕府直轄領となっています。
④大塔合戦に学ぶ教訓
この合戦の要因として、
- 小笠原長秀が守護にふさわしくない失礼な態度をとったこと
- 国人たちの既得権益を軽率に犯したこと(とはいえ、荘園領に対する国人の実効支配を正すニーズは中央側にもあったようです。)
- 幕府が中央の都合で守護を交代させ、また守護に在京を強いていたため守護権力が落ちていたこと
- 内乱が続く中、国人たちが根強い権限を得ていたこと
- 当時の慣習法では負けた武士も所領の半分や三分の一を没収されて終わり、となっていたので反乱のハードルが低かったこと
などがあります。
後世の一揆などもそうですが、在地勢力が土地と結びついたプライドを持つ「難治の地」としての信濃のイメージはここからスタートしたようにさえ思います。
国人側、「うちらは幕府そのものには逆らうつもりはないんですよぉ、守護さんサイドの問題では」と言いつつ、結構都合の良い形で実効支配、既得権益化を進めていますね。
「はじめに」で挙げた木曽義仲や北条時行の例も、うまく中央からの逃亡者側と在地領主側の利害が一致した結果と見ることもできるでしょう。
権限のバランスを変えるのはいつの世も困難です。
デジタル化や分権等についても、何かを変えようとすると「できない理由」が山ほど出てくるのが組織の常です。
また、そこに在地勢力というフィジカルな要素が加わってくると問題は更に先鋭化します。
先日、長野県政史を読んでいたら、戦時体制に備えるために作った地方事務所16か所を戦後に10か所に減らす際に、県議によるボイコットが起こったり、相当な反対運動が起こったりと大変なことになったという話がありました。
戦後の地方自治制度下ですらそうなのですから、命のやりとりが今より軽く、一所懸命を地で行く室町時代。長秀はとても難しいかじ取りを担わされていたとみて良いでしょう。
ここまで見たように大塔合戦、そんな単純な話ではありませんが「中央から来た役人が偉そうにした結果、どえらい目にあった話」としてとらえると、私も背筋にひやっとしたものを感じます。
(3)戦国大名としての小笠原氏の登場と退場
大塔合戦後、小笠原氏の惣領は長秀の弟、政康が担いますが、これ以降、小笠原氏は府中(松本)、鈴岡・松尾(飯田)の三派にわかれ、中央の権力争い、諏訪社の上社下社、国人たちの争いもからめつつ、中南信で骨肉の争いを繰り広げます。
あまりに複雑なので詳細は控えますが、府中の小笠原長棟(1492~1542)により統一され、ようやく戦国大名としての土台を身に着けます。
とはいえ統制力は弱く、子の小笠原長時(1514~1583)が武田信玄と対峙した際にも、配下の仁科氏をはじめとする有力諸将が裏切り、敗退しています。
長野県史には「小笠原氏の勢力は、府中の所在地である筑摩郡を中心として、そのまわりの安曇・伊那郡にも同心円的に勢力をおよぼしていた。しかし、主従関係を軸にして、比較的よく支配できたのは筑摩郡ぐらいであった。安曇・伊那郡にたいしては、主従関係というよりも、その地域の有力武士や弱小武士集団(衆)との間に、優位な同盟関係を形成し、それを軸にしてこれらの地方にも影響力をおよぼしていたというのが実情であろう。そして、これをささえた権威の源泉は、府中小笠原家が名門小笠原一族の惣領家であったこと、それとともに伊那小笠原家から、中・南信を管轄範囲とする守護職を獲得していたからと考えられる。」(P186)とあります。
(4)その後の小笠原氏
長時は府中を追われてからは伊那⇒三重⇒京都と落ち延び、子の貞慶(1546~1595)は徳川家康に仕えて旧領奪還を図ります。天正壬午の乱の際、貞慶は深志城を攻略し、その後九年間の統治を行います。
深志の名を「松本」に改めたのも貞慶です。通説では本拠地に返り咲けた嬉しさを「“待つ”事久しくして“本”懐を遂ぐ」とあらわし、「待つ」「本」⇒「松本」としたとか。
貞慶から家督を継いだ秀政(1569~1615)は1590年、家康の関東移封に従って下総古河(茨城県古河市)二万石に移封されます。秀政はのちに飯田藩主、松本藩主を歴任し、大坂夏の陣で討ち死にします。小笠原家はその後、何系統かに分かれ、小倉、唐津などを治めています。
松尾の小笠原家も流浪の末、伊豆木(飯田市)に戻ってきて交代寄合旗本(参勤交代ができる大名格の旗本。名誉。えらい。)になり、飯田市の小笠原書院ではゆかりの品の展示もあります。
(5)感想
ややこっしいわ!(机バンッ!)
本当は
- 府中・松尾・鈴岡の小笠原家の相克の詳細
- 諏訪社の絡み方
- 京都小笠原氏が室町幕府の弓馬の師範として名を馳せ、信濃の小笠原氏を政治的に助けていた話
- 小笠原貞慶、秀政父子が石川数正と同じく家康から秀吉に寝返り、後に家康のもとにもどった話
- 日清日露戦争で活躍した唐津小笠原家の海軍中将小笠原長生(1867~1958。名前の通り長生き!)
など、取り上げたいエピソードがたくさんありますが、現時点でパンク状態。
小笠原さん、内紛さえなければ信濃統一の戦国大名に最も近い存在でしたが、うーん、村上さんとの相性が致命的に良くないし、中南信代表、ってのが良いところだったかもしれません。とはいえ、そんな歴史のifも考えてみたくなりますね。
今回、この連載始まって以来一番文章がごちゃごちゃしてます。
私の文章力の欠如もありますが、本当に歴史がごちゃごちゃしているので、苦情等は小笠原さんサイドに言ってくださるよう切にお願いします。
3.今回のゆかりの地

①井川城跡(長野県松本市井川城1-8-4553)
小笠原貞宗が信濃守護に就任し、伊那郡松尾から府中に拠点を移す際に築いた城(館)。平地なので、戦うというより、支配のための拠点だったのかな。案内板以外特段何もないので、松本市さん、なんかやりましょうよ!めっちゃ提案しますよ!
②林城(長野県松本市里山辺)
府中小笠原氏が井川館の後に築いた山城。大城と小城に分かれる。大城は歩きやすかったです。小城は草の茂り方がはんぱなかった(山城なんてそんなもんですが。)。武田信玄に攻められ、1日で落城したといいます。この時代、城に最後の一兵まで籠って戦うよりもさっさと逃げて再起を期した方が賢明だったのかも。実際、子どもの小笠原貞慶が戻って来てるし。村上義清もそうしてたし。
大城には「姫の化粧水井戸」という場所がありましたが、看板が「名称の由来に何の根拠もない」とばっさり切り捨てていました。クール過ぎてちょっと笑いました。小城には地獄の釜。看板に「沼は底なしで(中略)「昔土引き中の馬一頭が引きずり込まれた」という恐ろしい話が伝わる」とある。恐ろしい。

大城の「姫の化粧水井戸」 
小城の「地獄の釜」

③旧小笠原書院(長野県飯田市伊豆木3942)
本文にも書いた通り、松尾小笠原氏が飯田に戻ってきて江戸時代初めに作られた書院。作った当初には城門、物見やぐらも備えた屋敷だったものが、今は書院だけ残っています。木目のつまった最高級の木材が使われており、風格を感じます。
併設の小笠原資料館は建築家ユニットSANAAの設計で、メンバーの妹島和世さんは小笠原家に連なるとのこと。面白い形の建築です。
地元の方々が有償ボランティアで受付・案内等を担われており、丁寧にご案内いただきました。
④松尾城(長野県飯田市松尾代田1007―1)、鈴岡城(長野県飯田市駄科1729)
松尾小笠原家、鈴岡小笠原家の拠点。現在はどちらも公園として整備されており、立派な遊具もあって子どもたちの姿も多かったです。堀切や郭の跡がよくわかる城跡らしい城跡。「松尾鈴岡公園」という看板でもわかるように、両城の距離がめちゃくちゃ近い!こんな距離に身内の拠点並べたらケンカになるわ!という距離。案の定ケンカになり、骨肉の戦い、だまし討ちが繰り広げられました。

松尾城 
鈴岡城

♨温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」
「湯々庵 枇杷の湯」(長野県松本市浅間温泉3-26-1)
泉質はアルカリ性単純泉。pHは8.8。松本の奥座敷浅間温泉。松本藩主であった石川数正の孫が湯守をつとめ、代々うけつがれてきた「殿様の湯」。敷地内には城主石川康長お手植えの松もあります。泉質からもわかるようにやさしいお湯ですので、歴史を感じながらゆっくりどうぞ。








