1.前置き

1.前置き
南信州は可能性の塊です。
リニアが通った後は市街地再開発事業等もどんどん行われるでしょう。
国土交通省に出向していた時に都市再開発法や土地区画整理法、ウォーカブルシティの法改正などに従事していたので、まちの開発は好きです。「鉄道と再開発」とか好きです(みなさん、雑誌「月刊 区画整理」とか知ってますか?月刊でやるもんじゃないでしょう!とか思いますが編集委員としてかかわっており、愛着があります。)。
温泉も焼肉もおたぐりも良い。
前回小笠原氏について調べる際に南信州も回りましたが、どちらかというと松本(府中)寄りの記載が多かったので、今回はこれまでに回った南信州のあれこれを書きつらねていきましょう。
第四回以来の久しぶりに観光案内チックになりました。信濃の国5番コンプリートを意識したため、太宰春台に関する記述が多めになっています。
なお、今回の取材の大半や、前回の飯田パートに関しては、飯田広域消防の横前さん(消防庁在籍時に、能登半島地震対応で輪島消防署に一緒にリエゾンに行ってくれました。細やかな気遣いの人。)が強力に助けてくれました。温泉まで考えてくれました。また、東京消防庁の宍戸さん(熱海市土石流災害の際に、オペレーションのなんたるかを背中で教えてくれました。博学ニコニコ消防紳士。)がバスで来て取材に同行してくれました。お二人ともありがとうございます。また焼肉食べましょう。
2.南信州のあれこれ
(1)太宰春台関係
①春台先生のこと、知ってる?
皆さん太宰春台先生をご存知ですか?「春台太宰先生も」と「信濃の国」の5番で歌われているあのお方です。信州人なら歌ったことはあるはず。
木曽義仲、仁科信盛(盛信)、太宰春台、佐久間象山と4人取り上げている5番ですが、太宰春台先生について県庁職員の皆様に「何やった人ですか」と聞いても答えられる人の率が一番少なかったので(私も知らなかった)、今回調べてみました。余談ながらこの連載の中で、これで4人コンプリートです!
飯田市には、太宰春台の屋敷跡を記念した松があります。飯田に関係した人だったんだなとは思っていましたが。さてはて。あまりに情報が少ないので「人物叢書 太宰春台」(武部善人 吉川弘文館。以下「叢書」といいます。)を買って勉強してみました。
②春台先生のおいたち、前半生
春台先生は延宝8年(1680年)に太宰言辰(のぶとき)の子として飯田に産まれます。名は純。字は徳夫。春台は号です。
父の言辰は太宰家に養子に入りますが元々は平手姓です。叢書掲載の家系図を見ると、春台先生のひいひいおじいちゃんは織田信長の守役として有名な平手政秀。平手政秀はヤング織田信長の奇行が止まないことを憂いて諫死したことで有名です。私は30数年前、小学1年生の頃に火の鳥文庫で伝記「織田信長」を読みましたが「え、じい死ぬの!?信長のやんちゃのせいで!?ええええ…。」と衝撃を受けた記憶があります。
なお政秀の子(孫という説もあり。)の汎秀は、武田信玄が徳川家康を脱糞するまでボコボコにしたことで有名な三方ヶ原の戦いに織田家からの援軍として参加し、討ち死にしています。
政秀を祀った「政秀寺」は長野県名古屋事務所の近くにあります。名古屋事務所に用務で行った帰りに立ち寄ろうとしましたが改修中。惜しい。叢書では、主君を自らの命をかけて諫めた政秀の子孫であるということが春台の人格形成に影響を与えたことが示唆されています。
父言辰は飯田藩主の堀氏に召し出されて江戸から飯田に来ます。武術全般を極めた優秀な人だったそうで、師範として藩に仕えています。
春台が9歳の時に言辰は不届きな行為があったとして、藩主に飯田からの立ち退きを命じられました。春台はここから飯田には戻ってこず、江戸で暮らします。
春台の飯田に関する想いがいかほどのものかはわかりませんが、叢書では「春台は山や川で体を鍛えるなど、信陽=飯田に対する望郷の念の深さは、のちの経済書の一つである『産語』の「跋」(あとがき)からもうかがわれる。すなわち、「日本 信陽 太宰純謹跋」とある。」(叢書P6)としています。
当時は元禄文化華やかなりし頃ですが、江戸での浪人暮らしは相当厳しかったようです。春台少年は立身出世の道を考え、和歌から漢詩へ勉学を進めていきます。「漢詩の道を覚えて悟ったことは、誰にも負けないと思う」(叢書P9)と豪語しています。
15歳の頃、但馬の出石藩主松平忠徳に仕えますが、一家の困窮等の心労の中で精神的に弱り、辞めたいと3回も願い出るも認められません。当時は退職代行業とかないですもんね。辛い。
メンタルになりながらも頑張っていた春台ですが、元禄13年(1700年)に母の游が病没するともう限界が来て藩を退職します。退職が一方的であったとして藩主から10年間の錮(追放。どこにも再仕官できない。)を命じ渡されます。21歳の頃。辛い。
10年の放浪時代は京都を中心に活動し、学問や舞、詩作などに努めていました。追放と言っても江戸にもこっそり行ったりはしていたようです。
30歳の頃に結婚します(ただし、5年にも満たず奥さんは亡くなっています。なかなか恵まれませんね…。)。
③荻生徂徠との出会いと飛躍
人生の方向性に迷っていた春台は32歳の頃、希代の儒学者、荻生徂徠と出会ってその弟子になります。
荻生徂徠は儒学の一派、朱子学を経て古文辞学を大成。江戸幕府5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保に用いられ、経学、経世学をもって幕政に貢献します。
「政談」「太平策」などの著作があります。1727年、8代将軍吉宗にも謁見しますが、その翌年に63歳で死亡します。
荻生徂徠と出会い、弟子入りした春台は、徂徠から天下の経営についてや古文辞学を学びます。
荻生徂徠の考えは重農主義に近かったのですが、春台はそれをさらに発展させ、後に記載するような経済学につながるような修正を加えています。
荻生徂徠の門下の中で頭角を現すにつれ、春台の名声は上がっていき、やがて春台は江戸の小石川に「紫芝園」を開き、弟子たちの教育を行っていきます。
荻生徂徠は柳沢吉保と結びつき、天下の経営に参画しましたが、春台はそれを「権勢の家に仕官するのは下である」(叢書P26)と批判し、在野の道を選びました。
一方で徂徠も春台の才能は認めつつ、その剛直、圭角、直言的な性格(後述)を心配しているように見えます。
叢書P44には師弟のやりとりとして
「師の徂徠から「狭中小量(人を受け入れる心の狭いこと)は春台の大病だ」といわれたとき、春台は手紙を書き、「狭中小量は病では無くて純の性(生まれつき)ですから、仕方ありません……」といいかえし、さらに幾多の実例をあげて「……やはり先生(徂徠)にも狭中小量の所がおありなのです」と反撃している。」
とあります。仲良し?
「経済録」をはじめ、多くの著書を残し、国内外に(朝鮮通信使にまで!)評価されますが、後述の振舞いもあって、世にその学説を反映する機会には恵まれませんでした。これについては春台は「自分の学問が政策に役立ち得ないことは「憤懣に堪えない」という考え」(叢書P31)であったようです。
とはいえ、自らが誠実に向き合って育てた多くの弟子に囲まれて、春台は1747年、68歳で亡くなります。お墓は台東区谷中の天眼寺にあります。
④センセの学説
春台の考えについて少し触れて行きましょう。
春台は多くの著作を残しており、その内容は多岐に渡ります。「赤穂浪士の仇討ちって相手間違えてるよね。不公平な裁きをした幕府に反抗すべきじゃんあいつら。」とかtweet的に出版して世間にめっちゃ批判されたり、ほんとにあれこれ多岐にわたります。
ですので、「経済録」(1729)を中心とした経世学の分野に限って述べましょう。以下のようなことを言っています(叢書の記載をまとめたもの)。江戸時代は年貢として納められた米を貨幣に交換して用いていることに留意が必要です。
また、儒学者であった春台は中国古代の聖人にこじつけに近い結び付けをしているのもやや注意です。さぁどうぞ。
・米価が低すぎると世の中にお金が回らなくなるので、米価は高くあるべき。武士は利にうといので、米が高く売れたら金銭を贅沢に使い、その結果、世の中にお金が出回る。
・武士は米で俸給が支払われるが、諸人は金俸である。凶作の際を考えると諸人に金俸ではなく米俸を強いるのが良く、米の売価は過去20年程度の兆候を見て一定にするのが良い。
・生計は「量入以為出」(収入を勘定して、支出を勘案)すべき。
・諸侯が年々貧困になるのは多事のためで、倹約の道が大事。治世では人々が暇になるので何事にも念を入れて細かな礼節に気を付け、無駄や役人の数も多くなる。これらを果断に省かなければならない。
・国の収入の四分の一を貯蓄に回せば凶作や災害に対応できる。
・悪貨を鋳造すると、世の人は良貨を隠して悪貨ばかりを使うから、世の中に悪貨が出回る。よって悪貨を鋳造しないこと、使わせないことが大事。
・商人は利益を重んじるから物価は上がっていく。例えば酒も原材料である米の価が高いときは当然高く、米価が安くなっても「米価が高いときの酒だ」として値段を下げない。そのようにして物の価格が万事下がらない。
・農作物には適地と不適地があるので、適地・適作により、その作物が有るところと無いところで交易をすることが必要である。
・交易によって国を富ませる富国は強兵のもとであって大事。
などなど。
どうでしょうか。比較優位論とか、グレシャムの法則とかの現代の経済学に通じる部分がありますよね。
今と前提が異なる江戸の世の中において、これらの学説よりも前にここまでの整理がされているところがすごいところですね。
⑤センセのパーソナリティ
春台には上述の通り剛直、圭角、直言の部分があり、エピソードも
・援助してくれている大名が手紙で礼を失したから激怒
・大名の子息に家庭教師に行ったが門まで出迎えに来なかったから激怒
・大名の贈り物が傷んでいたので礼を失していると激怒
・「経済録」に興味を示した将軍吉宗の命を受けた側近が、仲介者を立てて「経済録」を献上するよう連絡を取ってきたのを「直接老中が出向くならともかく、仲介者を仲立ちとして献上するのは自負心が許さない」と断った
など、一筋縄ではいかないことがわかります。特に最後のエピソードとかヤバイ。時の将軍に用いられる道を自ら放棄しているに等しい。
総理に自説を注目された気鋭の大学教授が「総理や大臣から直接連絡がなかったから審議会の委員や講演依頼は断る。」みたいな感じ?気難し過ぎやしないですか先生!
「自分の学問が政策に役立ち得ないことは「憤懣に堪えない」」(叢書P31)というのは若干自業自得では…。
また、春台は博覧強記であり、一度見た本の内容や諸大名のデータは全て覚えていたそうな。
極めて優秀だけど気難し過ぎて付き合いづらい人、という感じでしょうか。
一方、弟子に対しては、優秀な人以外も見放すことなく、礼を失さない限りにおいては相手の能力に応じて真摯に教育につとめたそうです。
⑥ムムム
春台先生、結構難しい人ですね。その根底には「行政に対するあこがれ」と「行政に対する不信、コンプレックス」、「平手政秀の血族としてのプライド」があったように私には思います。
彼はとても頭の良い人なので、自分の考えを世の中の役に立てる手段としての行政にはとても魅力的に見えたでしょう。
一方で、父が飯田藩を追放された経験、出石藩でメンタルになったり退職後に10年間錮を命じられたりした経験等から、行政というものには根強い不信感があったり「軽く見られたくない」という気持ちがあるように思います。
吉宗に対する対応とか、諸大名に対する対応とかを見るとそんな風に思ってしまいます。自分が賢い自覚があった方ですから「もっとやれるはず」という気持ちもあるでしょうし、ううん。難しい生き方をしていますね。
⑦信濃の国
春台先生、信濃の国の5番に出てくる他の3人、木曽義仲、仁科信盛、佐久間象山とは結構質が違う気がします。3人は生まれは信濃ではなくとも、活躍の場の結構な割合は信濃でした。春台先生については現在の年齢換算で小学3年生まで信濃で育っただけに見えます。これはいったいどういうことなのか…。木曽義仲が中信(木曽)、仁科信盛が南信(高遠)、佐久間象山が北信(松代)であれば、残りの一人は「真田昌幸(東信、上田)」とかでも良い気がします。ネームバリュー的には間違いなくこっちでしょう。南信州の人と話していても「ああ!太宰春台ね!うちの誇りだよ。こういうことをした方だよ」と具体的に説明する方もお目にかかったことがありません。学者枠が良かったのか、前述の「あとがき」でもあったように、信濃への帰属意識が実は無茶苦茶高いのか、なんなのか。誰かこのあたり知っていらっしゃったら教えてください。

⑧ゆかりの地
・太宰松(長野県飯田市中央通り三丁目)
太宰春台が飯田に居た頃の屋敷跡に春台の愛した松があり、長野県史跡天然記念物に指定されていましたが、昭和22年の飯田の大火で焼失し、現在は二代目の松が植えられています。邸の跡はちょっとした空地になっており、ベンチもあるので、飯田勤務の方は酔っぱらって座ったこともあるのではないでしょうか。水飲みながら休憩するのにちょうど良い感じです。

・天眼寺(東京都台東区谷中一丁目2-14)
春台のお墓があります。他もそうですが、観光地化していないお寺は毎日対外的に開いているわけではないので、お参りする場合は事前に連絡を入れると良いでしょう。お墓は高さ1.3メートルほどの大きさで、他のお墓の中にあるため、他のお墓参りの方々にご迷惑をおかけしないよう注意してお参りしょう。
(2)満蒙開拓平和記念館(長野県下伊那郡阿智村駒場711-10)
日本で唯一満州移民を中心に扱った記念館です。運営は一般社団法人満蒙開拓平和記念館。
長野県は最も多くの満州移民(満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍)を出した県でした。これには昭和恐慌による農村の困窮が一因となっています。
同館の展示では農家の収入の減少(養蚕業が繭価の暴落でダメージを受けた)など、満州移民にいたる前提から丁寧に解説されています。
満州移民に関しては国策でしたので県も学務部長や経済部長名で市町村に依頼を出すなど、行政機関の一部として送り出しにかかわっていました。
満州移民自体の評価をここですることは避けますが、同館の展示は、送り出しの背景、現地で元々住んでいた人々を追い出して(又はそれと同視できるぐらいの価格で買いたたき)開拓村が作られたこと、現地での生活、敗戦と悲惨な逃避行、帰国後のご苦労、現地に残された人々とその帰還等の情報を、フラットな目線で描こうという努力がなされているように感じました。
同館へは周囲の中学校・高校の学生がボランティアとして学び、伝える活動を行っています。
私は、教育って非常に大事だと思っています。
小学生の息子をおやじの会のゴミ拾いに誘ったときに「SDGsだよね。行く」と言われたときに、それを強く認識しました(周知啓発って大事なんだ、と身近に感じました。)。
「平和教育」については、場所によってその受け止めがかなり変わるな、という認識です。
私が以前赴任していた広島市では、平和教育は原子爆弾の被害と強く結びついていました。平和記念資料館はもちろんそうですが、広島市を歩いていると何十メートルおきに原爆に関連した碑(内容は「ここで工場で働いていた女学生〇名が原爆被害で死亡し」というようなもの。)が建てられており、日常の中に過去の被害が強く結びついています。
また、私は長野県が進めている沖縄県との交流の担当部長でもありますが、沖縄において「平和教育」の中心は凄惨を極めた沖縄戦と推察します。
もちろん子供たちが平和という形のないものに想いを馳せるに当たって、身近な場所であった出来事からスタートするのは良いことです。

一方で、それが相対化されることも大事ではないかと思っており、何らかの形で、各地で平和を学ぶ子どもたちの交流を進められないか、と現在画策しています。
いずれにせよ、長野県で行政に関わる職員は一度は行っておくべき施設と思います。
この項は事柄が事柄ですので、おふざけなしです。

(3)長岳寺(長野県下伊那郡阿智村駒場569)
武田信玄終焉の地、と言われる天台宗のお寺です。武田信玄は徳川家康を脱糞させた後、上洛の途中で病気で亡くなりますが(「豊臣兄弟!」だと餅を喉に詰めてましたね…。)その遺骸が運び込まれたのがこのお寺。信玄公ゆかりの品物やみごとな襖絵など、見所満点です。ご住職がお寺の説明をしてくださりましたが、「堂内の写真はご自由にお撮りください。ただし、霊が写りますので気を付けてください。」と恐ろしい説明があり、ビビりの私は内部の写真を撮らなかったです。
元住職の山本慈昭さんは満蒙開拓団関係で現地の国民学校の教師として渡満し、敗戦後にシベリア抑留、帰国後中国残留孤児の肉親捜し等の支援を行い、「残留孤児の父」とされた方です。満蒙開拓平和記念館から車で5分ほどなので、セットで訪問すると良いでしょう。
(4)元善光寺(長野県飯田市座光寺2638)
善光寺が今の場所(長野市)に来る前に善光寺如来がおわしたお寺です。善光寺如来(正しくは一光三尊阿弥陀如来、ですがややこしいので善光寺如来で統一します。)は仏教伝来の時期に日本にいらして、仏教反対派の物部氏と仏教受容派の蘇我氏の戦い(聖徳太子のヤング時代)の際に難波の堀に打ち捨てられていました。これを拾ったのが飯田市座光寺の住人である本田善光さん。ご自身の故郷に善光寺如来をお連れします。
清めた臼の上に安置したところ光り輝き「座光寺」という地名はそのエピソードから来ています。

善光寺如来はその後「もっと北の方が良い」と夢枕で主張し、現在の善光寺近辺にお引越しされました。「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績(座光寺)の古里に帰り来りて衆生を化益せん」と仰っており、現在でも元善光寺に来てご利益を授けてくださっていることから、善光寺だけのお参りは「片詣り」と言われるそうです。「帰り来て」ということは、いらっしゃってない時期にお参りしても効力はあるのでしょうか。そこは仏パワーでカバーされているのでしょうね。
御戒壇巡も、こちらでもできます。びんずるさんもいらっしゃいます。
善光寺についてはいずれ特集するので、ここではこれぐらいで。
(5)飯田市川本喜八郎人形美術館(長野県飯田市本町一丁目2-2)
飯田市は人形劇のまちとして知られています。これは交通の要所であったことで人が集まる拠点であったことによるとされています。
そんな人形劇のまちを人形作家、川本喜八郎さんが訪問して心動かされ、自らの手がけた人形を寄贈したことで出来たのがこの美術館。
川本喜八郎さんの人形を用いた人形劇で有名なのはなんといってもNHKのテレビ人形劇「三国志」「平家物語」(私は観たことがないのですが、真田十勇士もなんですね!)。
「三国志」は小学生だった私と三国志の出会いとなる作品でした。これを見てから「面白い」と小学校の図書館の三国志の本を借り、祖父の家に吉川英治版三国志があるのを知って譲ってもらい(じいちゃん、「徹も読むんか」と喜んでたなぁ。)、中学時代は十八史略にも背伸びして手を出したり、KOEIさんのゲームなどにもどっぷり浸かったり…、と現在に至る原点がこの人形劇。ゲームなどでのキャラクターの造形もこの人形劇の影響が大ではないかと思います。同世代には私と同じようにテレビ人形劇が入り口だった方も結構いるのではないでしょうか。
三国志についてこのエッセーで取り上げる機会はなかなか無いですが、日本の歴史を語る上でも三国志等の中国の故事が下敷きになっている例もあり、無関係というわけでもないので、というか私が好きなので、ここで雑談します(川本喜八郎先生、ごめんなさい。)。
皆さんは三国志の関連作品では何が好きですか?
私は小説だとなんといっても北方謙三版「三国志」が好きです。今でも馬謖を処分する前のシーンは覚えています。安能務版「三国演義」なんかも孔明の書き方が独特で面白い。漫画だと蒼天航路(「遼来来」!)。ゲームは三国志、三國無双(呂布の触角が画面下部に映った時の恐怖。)シリーズももちろん好きですが、「決戦2」というプレイステーション2の作品が実は好きです(市川染五郎孔明のインパクト。あと中山エミリかわいい。)。
不思議なのはキャラクター造形について、孔明が有能軍師だったり政治家だったりあるいはヘッポコだったり変態だったりパリピになったり(「はわわ」は置いとくとして。)みんなのおもちゃ化している反面、関羽の振れ幅が少ない気がすることです。やっぱり神様だから?
「平家物語」はこのエッセーでも取り上げた木曽義仲も悲劇的で良い感じに描かれていますね。長野県に着任した当時に再放送が流れていました。私は平家の公達が劣勢の中で意地を見せる場面が好き。平時忠の苦悩なども好きです。
これらのドラマでは人形たちが様々な表情を見せます。チコちゃんみたいにCGを使わずとも、制約の中で角度や動きだけで雄弁に語りかけます。本美術館ではその秘密がつまびらかにされています。実際に人形を動かしたりもできるので、ファンの方でなくても楽しめることうけあい。
時間に余裕があれば元善光寺の近くにある竹田扇之助記念国際糸操り人形館
(良い施設ですが、このエッセーの本旨から少し外れてしまうので詳細は割愛。)も回って欲しいです。両者の違いなどもわかって面白いですよ。

我らが木曽義仲公 
おもちゃにされがちな諸葛孔明
(6)北条時行供養塔(長野県下伊那郡大鹿村大河原桶谷地区)
大鹿村に北条時行のものと伝わる供養塔があります。少しだけおさらい。
北条時行は鎌倉幕府の滅亡時の執権である北条高時の子で、諏訪神社の大祝(おおほうり)、現人神である諏訪頼重にかくまわれ、諏訪氏を中心とする鎌倉幕府の残党勢力を引き連れて蜂起し、一時は鎌倉を足利方から奪還します(1335年。中先代の乱)。鎌倉からはすぐに追われ、諏訪頼重も鎌倉で自害するも時行は生き延び、南北朝の乱では南朝方について朝敵を赦免され、後醍醐天皇の皇子である宗良親王(征夷大将軍。三十年にもわたり信濃で活動を続けたので「信濃宮」とも呼ばれます。)を奉じるなどしてしぶとく戦いを続けます。大鹿村は宗良親王が拠点とした地の一つであり、宗良親王を奉じた香坂高宗の墓や御所跡など、ゆかりの場所が複数あります(また回らねばなりません。)。
このあたり、南朝方の勢力の避難場所になっていたり、京都における吉野みたいな扱いになっていたのかなぁ。

供養塔には墓碑もありませんが、こっそり祀ったものと言われています。
「逃げ上手の若君」のアニメ(第二期が2026年7月17日から始まります!)の第一期ED(鎌倉STYLE!)冒頭で登場したことで逃げ若ファンを集めています。
供養塔への道は大鹿村が遊歩道を整備してくれていますが、軽く山登りなのでしっかりした服装がおすすめ。熊が出るらしいので熊対策を忘れずに。
余談ながら、後醍醐天皇の皇子たちはみなたくましい。尊氏と張り合った護良親王(大塔宮)、九州を一時は勢力圏として中国の明にも「日本国王」と柵封された懐良親王、東北で戦った義良親王(後村上天皇)など、後醍醐天皇のタフネスを受け継いでいます。壬申の乱の時代ならともかく、その後は平家物語の時代だって後白河法皇自ら現地で戦うなんてことはしてない(以仁王ぐらい?)のですから、皇族にしてこの戦歴は相当なものです。
さっきの三国志でも出てきた北方謙三さんが歴史小説で南北朝を多く取り扱っており、この人の滅びの描き方がたまらなく好きです。「破軍の星」「武王の門」など是非読んでみてください。
私は神社付設の幼稚園で育ちましたが、その神社が北畠顕家、北畠親房を祀ったものだったり、私自身は大阪市出身ですが、父方の祖父が河内長野市という楠木正成の勢力圏在住(小学校の夏休みの自由研究で、祖父と楠木正成ゆかりの地を回り、写真を添付して模造紙に解説しました。30年経って気づきましたが、今とやってることが変わらないですね。)だったり、思想信条は無いですが、ご縁的にはゴリゴリの南朝派です。
(7)阿島傘伝承館(長野県下伊那郡喬木村阿島765-1)
喬木村の伝統工芸品、阿島傘の伝承館です。阿島傘は旗本でこの地の関所守ある知久氏が旅人を介抱したところ、感謝した旅人が傘の作り方を教え、領内の材料で作れるものであったことから地場産品として奨励された、というものです。
この知久氏は諏訪氏→南朝→小笠原氏(室町時代)→武田氏→徳川氏(甲州侵攻時に協力)と動乱の時代を生き抜き、交代寄合(前回とりあげた伊豆木小笠原氏と一緒で、参勤交代ができる旗本。名誉。えらい。豊臣系の大名の脇坂氏(飯田藩)への抑えとして配置されていたようです。)として3000石をとり、陣屋を構えます。
最盛期には100軒以上の傘屋が営まれていたものの、同館HPによると、
「最盛期には年間30万本生産していた阿島傘ですが、月日は流れ洋傘の普及とともに和傘は衰退し、現在では傘作りを生業とするお家はたった2軒に。また、材料が地域内で揃ったことから盛んになった傘づくりでしたが、骨屋・ろくろ屋等の職人がいなくなり、現在は竹の骨組みを岐阜から仕入れ、傘作りを続けています。

江戸時代から続くこの伝統工芸を伝承しようと、地区の皆さんで組織する「阿島傘の会」では、地元小学校での傘づくり体験を通して保存活動が行われています。」とあります。
同館見学時には阿部知事やオリエンタルラジオの藤森さんが書いた傘も飾ってありましたが、傘への文字書きは失敗できないので、書道が苦手な私は、はへー、と感心しておりました。

阿島傘、2025年3月18日に外務省飯倉公館で実施した外務大臣・長野県知事共催レセプション「山岳高原リゾートNAGANO 美しい山岳と清らかな水」でも写真のような形で展示しましたが、綺麗でしょ?この展示法、私好きです。
若い方も職人として入られており、今後の活躍にも期待です。
見学は2日前までに予約をしなければならないので注意。
(8)松岡城址・松源寺(長野県下伊那郡高森町下市田・高森町下市田4389)
松岡城は高森町の豪族、松岡氏の拠点とした城です。松岡氏は前九年の役で源氏に敗れた陸奥の国の安倍貞任(安倍貞任って単語自体、相当久しぶりに見た。)の子孫とされており、小笠原氏に仕えます。ちなみに安倍貞任の兄弟の安倍宗任は伊予に配流されますが、その子孫が安倍晋三元総理なんだとか。
松源寺は松岡氏が建立した臨済宗のお寺で、大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも出てきた井伊直親(徳川四天王、「赤備え」で有名な井伊直政のお父さん)が9歳から20歳まで12年間匿われていた場所です。
井伊家は今川氏に仕えていましたが、今川義元に忠誠を疑われ井伊直満、直義兄弟が殺害されます(1544)。その子の井伊直親は身の安全のために井伊氏の菩提寺、龍潭寺の住職の師匠筋でつながりのある松源寺にかくまわれます。
なお、この龍源寺は井伊氏の菩提寺ですが、井伊氏が南朝方に仕えた縁で前述の宗良親王が中興の祖だとか(わー、つながりました!信遊記数珠つなぎ!)。
井伊直親、「おんな城主 直虎」では三浦春馬さんが爽やかに演じていましたが、12年の間に現地で笛の師匠と恋に落ちて1男1女を残したとか。大河では描かれていませんでしたよね?逃亡生活とは思えぬたくましさ。素敵やん。

さて松岡城に戻りますと、安土桃山時代の城主松岡貞利は本能寺の変の跡、徳川家と豊臣家の間で揺れ動きますが(前回の小笠原さんに同調していたみたいです。)、徳川方に裏切りがバレ、申し開きをするも許されず改易されます。この時に松岡貞利を預かったのが井伊直政。かつての父の恩もあり、死罪は免れるようになんとかとりなします。うーん、ドラマ。
松岡城はこの改易時に破却。現在は公園としてその姿を偲ばせます。郭の形とか、堀の跡とか、結構わかりやすく残っていて良い感じですよ!
(9)飯田市美術博物館、柳田國男館(長野県飯田市追手町二丁目655-7)
飯田城の二の丸跡に位置する。美術・自然・歴史が一体となった博物館で、あまりこういう形態の博物館を見たことが無かったので新鮮。
管理とか、展示の比重とか、ステータスの均等振りをしていると人員資源が限られてくる中で大変じゃなかろうか、と老婆心ながら想像。
長野県では半年に一度、県と市町村長代表(市長会、町村会の役員になっている首長さんたち)が政策議題を話し合う場として「県と市町村の協議の場」を設けているのですが、先日の議題が「人口減少下における持続可能な公立文化施設のあり方の検討」というもので、美術館も博物館(議題の範囲にはコンサートホール等も入りますが)も好きな私はウキウキ司会をしていました。サンドイッチマンの漫才の入りで「世の中一番興奮するものといったら~~だよな」「間違いないね」というのがありますが、あれです。

持続可能な公立文化施設、という意味では、走攻守そろったこういう施設が文化の核として求められる役割は高まっていくのだろうなぁ。郷土資料館的な小規模館との役割分担が今一度議論されるべき?県民文化部の方針と違ってたら小池県民文化部長に遊びに連れていってもらえなくなるので、黙っとこ。
飯田市美術博物館の奥には柳田國男館があります。
柳田國男先生については民俗学の大家(たいか)、「遠野物語」のイメージでしたが、東京帝国大学→農商務省→貴族院書記官長→枢密院顧問、とがっつり行政官でした。農水省・経産省系のパイセン。奥さんが飯田藩士の家系だったそうで、また、南信州の民俗学的な特異性をもってかなりの回数いらしていたようです。
南信州は伝統的なお祭り等が残っています。
飯田市美術博物館の展示(歴史)も私が訪れた際はお祭りが中心でした。
県立歴史館の笹本参与には「あなたは城跡等が好きだが、歴史を知るには南信州のお祭りに参加しないとダメだぞ。それと王滝村のどんぐり料理を食べないとダメだ。」とアドバイスをいただいています。どっちも残念ながら出来ていない……。また、霜月祭りにも行ってみたいです。

あと、「日夏耿之介館」も飯田市美術博物館の付属施設としてあったのに、なぜか気づかず。こういう事はたまにあって、レベルが足りないとか、イベントをクリアしていないとか、必要なアイテムを持っていないとか、洞窟に行って中ボスを倒す必要があるとか、そういうことだと思います。要するに、また修行して再訪しなさい、ということですね。

(10)飯田城桜丸御門(通称赤門)(長野県飯田市追手町二丁目678)
我らが長野県飯田合同庁舎敷地横にある赤門。飯田藩主の堀の殿様(安土桃山時代に「名人太郎」とうたわれた走攻守そろった武将、堀秀政の子孫。)が5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保(上の方で荻生徂徠との関係でも出てきてますね。マルチヒット!)の娘をお嫁さんに迎える際に作ったもの。
飯田市HPによると、「飯田城で唯一、当初位置に残る建物」で、長野県内でも当初位置に残る城門は「他に小諸城の大手門、三の門(ともに国重要文化財)、上田城の藩主居館表門(上田市指定文化財)」の四棟だけだそうです。
にしても飯田合庁、トライアングルというか、不思議な形してますよねぇ。迷いそうになります。初訪問時は前日の南信州地域の皆さまとの懇親会の結果、二日酔いがすごかったため、いろんな意味でくらくらしました。
3.その他
まだまだ行けてない!遠山氏の関係(大河内城(天龍村)、和田城(飯田市))大鹿村などの南朝関係の数々の史跡、「時の駅」(高森町)などの郷土資料館の数々、南信州西南部の山城の数々、根羽村の信玄塚、うっかり行き損ねた開善寺(小笠原貞宗が建立。前回書いていて「あ!ここ行ってない!」と思いました。レベルが足りなかったのですね。)。
また、以前見た天龍村の平岡駅の展示をもとに三信鉄道の話を、と思ったら写真を撮り忘れていたのもショックでした(また来い、ということですね。)。
飯田市街地も、焼肉について触れられませんでした。今回書き始めて、「信州飯田焼肉研究所」などを中心に「焼きループ~焼肉じゃない夜を知らない~」(あのPVの踊り好き)というタイトルでまとめようかと思いましたが、あまりにも何書けば良いかわからなさ過ぎて断念。また、飯田は小京都をうたっているのに「全国京都会議」に入っていない理由を調べたかったり、昭和の大火と防火性のある街並みへの再建(都市計画も消防も好き。)について調べたかったり、飯田合庁のデザインを調べたかったり、まだまだ謎が残り、「私、気になります!」(チタンダエル)状態です。
とはいえ、分量的にもここらがマックスでしょうね。
南信州は長野市出発でちゃんと取材しようとすると泊りがけを余儀なくされます。また自由に動ける土日を確保して、行きましょう。
♨温泉ソムリエ・ナカムラトオルの「今日の温泉」
「下條温泉 コスモスの湯」(長野県下伊那郡下條村睦沢3405)
泉質はアルカリ性単純硫黄温泉。pHは9.79。ここはヌルヌルの泉質もさることながら、露天風呂からの絶景がすばらしい。南アルプス、中央アルプスの山々や伊那谷の風景が一望できます。
営業時間は11時~20時(受付は19時30分まで)。休日は1月1日、火曜(火曜日が祝祭日の場合は木曜日。…なぜ水曜じゃないんですか?)。料金は大人500円、小学生以下200円。


信州の各地を歩きながら、地域の歴史や現場の空気感を記録する「信遊記」。
バックナンバーはこちらからご覧ください。






